1970~80年代、西麻布「カピトリーノ」の吉川敏明さんや「グラナータ」の落合さん、「アルポルト」の片岡さん、神宮前「タヴェルナ・アズーラ」の斉藤惠自さんたちがイタリアで修業して帰国し、イタリアのヌオーヴァ・クッチーナあるいは郷土料理を東京に根付かせ、「憧れのシェフ」となった。その「憧れ」は若き料理人たちをイタリアに旅立たせた。数年後、帰国した「第2世代」によって、90年代のイタリアンは幕を開ける。
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奥田さんはイタリア修業の夢を封印して、96年に郷里・鶴岡で庄内のイタリアンを追求してみようと帰郷。オーガニックやハーブの流行という追い風を受けて2000年に「アル・ケッチァーノ」を開店させた。
石川さんは84年に渡伊。シチリア島で修業した日本人の先駆者となった。帰国し南イタリア料理の店で働き、00年に「トンマズィーノ」、6年後には「ドンチッチョ」を開いた。ふたりに共通するのは形を変えた「郷土」料理。日本に多彩なイタリアンが根付き始めた証だった。
志は見向きもされなかった。何度も農家を訪ねて仲間を増やした。「イタリアンに合う野菜を説明し、在来のネギを生産者とポロネギみたいな味に」。転機は02年。政府が地産地消を提唱したことで風向きが変わった。「庄内の野菜」という〝オンリーワン〞を見付けた奥田シェフ。「郷土のイタリアンという光を目指してやり続けたのが良かったのでしょう」。写真は「鳥海山のイワナの薫製でサンドした庄内湾の魚のテリーヌ」。
90年代は、西麻布の南イタリア料理店「ラ・ベンズィーナ」で腕を振るった。「トリッパはあまり受け入れられなかった。ウイキョウも」。お客に知らないものを伝えるのも大変だった。地方色を前面に出すことは賭けだったが、「ラ・ベンズィーナのときに手ごたえはありましたよ。あれだけ人が入ったのは、旨かったからでしょう?」。その言葉の奥に、シチリア料理への愛と、やり続けた者の密かな自信が見えた。料理は「カサレッチェ コンレサルデ」。ウイキョウを使ったシチリアの定番パスタだ。
「開店当初は一般的においしいと思う料理でメニューを組みました。〝守り〞にいったかもしれませんね。後に、急がずゆっくりと、自分が食べたいと思う料理をメニューに組み込んで、自分の色を作ってきました」
店内には四季の花。季の皿絵に旬の料理を盛る。ここ数年間に来店した顧客が食べた料理はなるべく書き残す。素材、味、サービス、インテリアすべてに細やかに気を配る。調理場はもちろんのこと、ホールスタッフも衛生面をたえず気をつけるように心がけているという。
「僕は特別なことは何もしていません。ただ、清潔で居心地のいいリストランテでありたいだけ。それが濱﨑龍一のリストランテだと思います。この空間で料理を食べたい、お客さまにそう思っていただけるようにこれからも努力していきます」
濱﨑さんは「バスタパスタ」と「リストランテ山﨑」、スタイルの違う店で経験を積んだ「。『バスタパスタ』では今まで体験したことのない経験をさせてもらいました。先輩の日髙良実さんの紹介で入った『リストランテ山崎』では、また違った感覚に触れることができ感謝しています」。「リストランテ山﨑」では10年以上シェフを務めた「。オーナーとは何も不満がなく仕事をさせていただきました」
15年以上一緒に働いているスタッフたちと、毎日楽しく仕事をしている。それでも「いつも崖っぷちですよ。決して現状にあぐらをかかないように努めています」。見えない努力をするために、細心の注意を払い続けからこそ、人はこの店に惹きつけられるのだ。
80年代末に起こった〝イタメシ〞ブーム。アルデンテの流行も「硬けりゃいいもんじゃない」と冷めた目で見ていた。しかし――。「それじゃ自分は何をすべきなのか?」。
「基本に忠実であれ」と教えてくれた「クッチーナ・ヒラタ」の平田勝さんの教えを胸に、鈴木さんは25歳でイタリアへ。わずか1年だったが得たものは大きかった。帰国後、02年に独立。「地方料理ではなくイタリア料理をやりたい。それが平田から受け継いだ僕のスタイルです」
一方、96年から京都、東山七条の店で働いていた笹島さんは、「イタリア産」にこだわる店の方針に疑問を感じていた。京野菜という最高の食材があるのに、なぜイタリア野菜を使うのか。そのモヤモヤを救ったのは、あるイタリア人の言葉だった。
「その土地のものを使うのがイタリアンだよ」。イタリアンの本質が胸に落ちた。02年に独立。京都の食材をふんだんに使う自分の料理は「イタリアへの愛と日本人のアイデンティ」と、笹島さんはほほ笑む。
渾川さんは若干29歳で独立し、まだ珍しかったフリウリ地方の郷土料理で勝負に出た。わずか12席の隠れ家的な店。繊細で端正なイタリアン。「こじんまりした店もあれば、濱崎さんのようなシェフの店もオープンした。あの頃、イタリアンの未来は明るかったですよ」と振り返る。
「ヴィノ・ヒラタ」のシェフを経て、02年に独立。しかし、最初は1日1組しかお客が来なかった。それでも、「そのお客さんがまた来てくれれば、店は必ず繁盛する」と信じ、目の前のお客のためだけに料理を作り続けた。すると3カ月も経たないうちに1日20組入る人気店に。「イタリア料理とは郷土料理の集合体。それを表現するときに、ピエモンテ料理だけやっても仕方がない。今日作ったローマ風オッソブーコ(上)もあればアクアパッツアもある。みんながわかるイタリアの料理を北から南までを理解して作る。それが僕の思うイタリア料理です」
「9月の中頃に京都の割烹へ行ったら、どこもお碗は「ハモと松茸」だと思います。ですから、今日は『ハモと松茸のバヴェッティーネ』にしました」と笹島さん。日本料理では椀種が花といわれるが、イタリア料理であれば花はパスタ。そこに京都の旬の素材をジョイントさせたいという。春ならタケノコとタイ、夏ならアユ、冬はシラコとネギなど。「料理人は職人ではなくクリエーター。クリエーターは枯れてはならない。だからこそ、つねに時代の波を感じていたいですね」
開店した当時から作り続けている「チャルソンス」。シナモンとミントの風味と、砂糖の甘い味付けが特徴のフリウリ州の伝統的パスタである。この料理は、修業先のレストランのメニューにはなく、渾川さんが頼み込んで教えてもらった思い出のひと皿。2年前、イタリアへ行った際、チャルソンスを探して食べに行った。そこで食べた味が自分のものと同じだった。「自分のやってきたことは間違っていない」と感じ、うれしかった。「僕はイメージが固まる前にイタリアへ行きました。ガチガチの頭でなかったから、あのときに食べた料理の味が感動として記憶に残っているのかもしれません」
フランス、イタリアで1年ずつ修業して帰国し、本多さんは99年に「アルポルト」に入った。「これが日本の第一線か」と刺激的だった。
国内外から毎日届く数々の最高の食材。生産者との横のネットワークには、独立してからも助けられた。巷では食の安全が叫ばれ、無農薬の野菜に注目が集まり、海外からは時差のない良品が輸入されていた。
本多さんが店をオープンさせた04年頃、すでにイタリア料理はすべて出つくした観があった。そこにどう斬り込むのか。どう旨い料理を追求するのかが問われていた。
「日本の素材を使って作る日本人のためのイタリアン」。それをリストランテの枠でやることが、自分のイタリア料理のオリジナリティになっていく、と本多さんは思っている。
「僕の先輩の多くはフレンチをベースにした人が多かったので、料理の基礎的な部分にはフレンチが重要だと思っていました」。フランスで修業したのは、自分の技術を確かめ磨くためだった。「行ってみて自分の技術は通用すると思いました」。2つの国を知ったことで、ヨーロッパの料理人の本質をつかんだ。「星付きのレストランで働いている人たちは皆、自分のテクニックを磨き向上させて、それを祖国へ持ち帰ってオリジナリティを、自分のカラーを出しているんです」。
Cuisine Kingdom=文 星野泰孝、依田佳子、富貴塚悠太=写真
本記事は雑誌料理王国第219号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は第219号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。