江戸の文化文政の時代から、脈々と受け継がれてきたといわれる江戸前ずし。これまでどんな技や仕事があり、どういう歴史を歩んできたのだろう。「㐂寿司」「二葉鮨」と、代表するふたつの流れから、江戸前ずしの系譜をたどる。
江戸前鮨の開祖「與兵衛ずし」の流れを汲む初代の油井㐂太郎が明治の末に両国薬研掘で創業。現在の日本橋人形町に店を構えて85年目という、東京を代表する老舗。瓦屋根に金文字の看板、いかにも花柳界の鮨屋らしい華やいだ中に風格が漂う店舗は、かつて芸者置屋だったという。
江戸前鮨の開祖「與兵衛ずし」の流れを汲む初代の油井㐂太郎が明治の末に両国薬研掘で創業。現在の日本橋人形町に店を構えて85年目という、東京を代表する老舗。瓦屋根に金文字の看板、いかにも花柳界の鮨屋らしい華やいだ中に風格が漂う店舗は、かつて芸者置屋だったという。
江戸前の握り鮨は両国「與兵衛ずし」から江戸前の「握り鮨」がいつ頃誕生したのかについては諸説あって、定説はない。もっとも信憑性があると考えられているのは、文政年間(1818-30)に両国回向院前にあった「與兵衛ずし」の主人である華屋(小泉)與兵衛が始めたという説である。
それまで江戸で売られていた鮨は上方(関西)の箱鮨に近い形状のものだった。文化年間(1804-10)から江戸本所横網で鮨屋を営んでいたとされる華屋與兵衛は、両国に店を出すにあたり、長時間の押しを必要とする箱鮨ではなく短時間で作ることのできる握り鮨を考案したといわれている(異説もある)。当時の両国は、歌舞伎や浄瑠璃の芝居小屋が立ち並ぶ江戸有数の繁華街だから、より多くの客に対応するために、鮨を握るという方法を取り入れたのだろう。
握り鮨は「握早漬」と呼ばれて市民の評判となり、やがて江戸中を席巻する。江戸時代の終わりには、ほとんどの屋台の鮨屋が握り鮨を商うようになった。よってそれを広めた華屋與兵衛が「江戸前鮨の開祖」とされているのだ。「與兵衛ずし」は明治、大正と東京を代表する名店として君臨し続けたが、昭和7年に突如として廃業してしまう。だが與兵衛が確立した江戸前握り鮨の技は、その流れを汲む鮨屋にしっかりと受け継がれている。
現在、東京に残されている與兵衛所縁の店の中で、もっとも正確な形でその技を継承しているのは、人形町「㐂寿司」である。この店の初代・油井㐂太郎は、かつて馬喰町にあった與兵衛ずしの支店「すし忠」で9歳から修業した職人である。そして㐂太郎が体得した與兵衛の技は、二代目の油井貫一、そして当代の油井隆一氏へと、脈々と伝えられている。
古い「與兵衛ずし」の仕事を知るための資料として、與兵衛四代目主人の弟であるすし小泉清三郎が明治43年に記した『家庭鮓のつけ方』という本がある。この本の口絵には、明治10年頃、実際に「與兵衛ずし」で握られていた鮨を日本画家の川端玉章が写生したとされる15種類の鮨の絵が描かれているが、その中の「こはだ」「きす」「いかの印籠詰め」「太巻」などは、サイズこそふた回りほど小さくなったものの、ほぼ同じ形のまま「㐂寿司」に残されている。
いかの印籠詰めとは、いかの腹を印籠に見立て、その中に甘辛く煮たカンピョウ、ガリ、もみ海苔を混ぜたすし飯を詰め、上から甘い煮ツメをかけて食べるという鮨である。明治10年当時にどんなイカを用いていたかは定かではないが、「㐂寿司」では10月から翌年3月はヤリイカ、4月から9月まではシロイカを使うのが慣わしである。すし飯に混ぜたガリの酸味とカンピョウの甘辛さが絶妙な味わいで、じつにおいしい鮨だ。
また「㐂寿司」には〝ひよっこ〞や〝手綱巻〞といった、もはや他の店では見ることのできない貴重な飾り鮨も残されている。これらは花柳界華やかなりし頃に、柳橋や人形町の芸者さんたちが、おやつがわりにつまんだものという。
明治10年に創業した、東京でも有数の格式を誇る名店。 店鋪は銀座四丁目にあってひときわ目をひく、木造瓦葺きの粋な二階屋。
そしてもう一軒。「與兵衛ずし」とともに江戸前鮨の歴史を語る上で欠くべからざる店が、今も銀座に残っている。それが三原橋の「二葉鮨」である。
與兵衛に遅れること数十年、江戸末期の頃に葭(よし)町(現在の日本橋人形町)に店を構えていた「二葉鮨」の流れを汲み、明治10年に創業したここは〝鮨の聖地〞銀座でもトップクラスの格式を誇る。
大正時代から戦前にかけての「二葉鮨」は東京を代表する鮨の名店であると同時に、求めに応じて職人の斡旋や派遣をする紹介所でもあった。二代目親方である小西力蔵の時に大きく発展し、最盛期には80名以上もの職人を束ねていたという。
この職人たちの中には、戦後の江戸前鮨の世界を牽引した名人がひしめいている。まずは銀座「なか田」の創始者である中田一男、そして日本橋「すし春」、赤坂「錦」の親方を歴任し、銀座「きよ田」の初代親方でもある藤本繁蔵、八重洲「おけい寿司」の新家安蔵、銀座「源」(現在は閉店)の岡田源四郎など、錚々たる顔ぶれだ。決して大げさではなく、「二葉鮨」という存在がなければ、今日に至る江戸前鮨の繁栄はなかったと言えるだろう。
「二葉鮨」の前に立つたびに、その威厳に満ちた店構えに感嘆する。建物は木造瓦葺き。「握」と書かれた暖簾をくぐり格子戸を開けて中に入ると、床は三和土になっていて、ところどころに輪切りにした栗の木が埋め込まれている。カウンターは扇形に孤を描き、柱や梁は琥珀色。ハの字になった船底天井も珍しい。この店舗そのものが鮨の歴史における文化財と言えるのではないか。
もちろん建物ばかりではなく、仕事にも変わらぬ伝統が残されている。尻尾をピンと立てたカスゴ(小鯛)の握り。昔ながらの鞍掛けの形に握られる玉子焼。そしてコハダにはしっかりと酢が馴染んでいる。代々伝わるこの店の流儀として、コハダは〆めた後に5日から1週間ほど冷蔵庫で寝かせるという。今どき、こんな古典的な手法を頑なに守る店は他にないだろう。
そして、この店に伝わる江戸前鮨の技の集大成とも呼ぶべきものが〝ばらちらし〞である。これは一般的な、すし飯の上に生の刺身をのせただけのちらし寿司とは似て非なるもの。甘辛く煮た椎茸と干瓢、酢バス(酢につけた蓮根)、玉子焼、海老おぼろを中心に、煮たアナゴ、〆めたコハダ、茹でた海老、醤油にくぐらせた赤身や白身魚と、すべてひと仕事を加えたすしダネを使うのだから、驚くほかはない。
この〝ばらちらし〞を食べれば、江戸前鮨190年の歴史の重みを、誰もが実感するに違いない。
早川光 ─ 文、 越田悟全 ─ 写真
本記事は雑誌料理王国第150号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は第150号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。