食の未来が見えるウェブマガジン「料理王国」

江戸時代から現代まで。移り変わるすし屋のスタイル


時代とともに移り変わるものは、なにもすしの味とか仕事とかの話ばかりではない。すし屋のスタイルも然り。そこで、握りずしが誕生した江戸時代までさかのぼり、古き文献を紐解きつつ職人たちの声を聞きながら、すし屋の空間の移り変わりをつづる。

昭和34年出版、すし屋の空間だけにこだわった写真集がある。登場する店22軒。今と同じカウンター形式ではあるが、なにせ半世紀近くも前、流れる時間はどことなく違う。

カウンターの前、すしダネを並べたウィンドーケースは戦後に登場したものだ。すしダネ披露のお役目もさりながら、出前もめっぽう多かったあの時代、切りつけしたタネをスピーディに取り出せる利便性も重宝したと聞いた。

棚にはテレビ。すしをつまみながらプロレス中継に熱狂の図が浮かぶ。力道山が出る夜は満席に、テレビは客寄せの道具でもあった。電化製品といえば、この時期、冷蔵庫が氷式から電気へと移行する。なるほど、白いレトロな電気冷蔵庫をすえた店もある。しかし、まだまだ電気式は高嶺の花。

「そうだよ、うちもまだ氷冷蔵庫だったよ」浅草の古いすし屋のダンナが懐かしそうに話してくれた。

「氷屋がね、リヤカーに氷を積んで、自転車で引っ張ってくんだよ。もちろん毎日だよ。氷は、さあて、6貫目だったかなあ」

本のなかでも、多くは氷式。どっしり厚手の木製のヤツが頑張っている。

さらにツラツラ眺めていると、不思議な光景が目に飛び込んできた。カウンターの上部に庇というか屋根というべきか、そんなものを取りつけた店がある。天井はあるのでまったく不要に思うが、装飾のひとつとして堂々と存在している。ハタと膝を打つ気分でしたね。かつての鮨といえば屋台。りゃ屋台を取り込んだスタイルだと。カウンター回りだけに注目すれば、これすなわち屋台である(a、b)。

a
b (『すしや』彰国社)

屋台にて大ブレイク

屋台の普及は、江戸についておおいに語り残した三田村鳶魚さんによると、天明の大飢饉(1787年)以降のこと。握りずし誕生はさらに30年余りを待った文政期とされている。

さて初手の握りずしはどこで供されたのか。握りずし誕生に功績のあった華屋與兵衛というお人がいる。この方、文政7(1824)年頃に店を持つが、「客は待って折詰」と冷やかされたように、お持ち帰りが本筋の商いであった。同時代「粗品ゆえに」と、すしに一朱銀をしのばせるという金ぴか商法で売り出した「松之鮨」も、同様のスタイルだった。

いずれも庶民には手の届かない高級すし屋。すしは往来から見えぬとこで握られていた。しかし、外へと飛び出すのにさほど時間はかからなかった。そこですぐさま屋台か、というにはちと躊躇するものがある。

鰺のすふ小鰭のすふと賑かさ

俳風柳多留

川柳にもうたわれたとおり、鮨を白木の箱に入れて肩でかつぎ、呼び声高らかに歩く鮨売りも盛んだったからだ。

しかし歩くのは疲れるわな、やっぱ。商う量もすしダネの数も知れてるし。そこいくと屋台はいい。造作の費用もさしてかからない。客のほうから寄ってくる。客だって、ヒョイと気軽に立ち寄れる。気の短さで知られた江戸っ子の気分にぴったりではないか。かくして屋台という空間を得て、すしは大ブレイクしていく。

昔のすし職人は座って握った

c (歌川広重筆「東都高輪名所 二十六夜待遊興図」江戸東京博物館)

幕末、賑わう高輪へと案内してくれる図(c)がある。「二十六夜待ちの月」とやらのイベント日で、まだ海っぺりだったそこは屋台がズラリ。すしの屋台ももちろんありますぞ。そしてこの様子こそ昭和初期まで続く屋台のスタンダードナンバーである。

間口6尺(約180袍)で奥行き3尺。移動することはなく、町場なら路地の入口や湯屋(銭湯)の前、寄席や見せ物小屋近くとか、人が集まる場所に据え付け、商った。図の屋台の右にどんぶりが見えるが、醤油が注いであり、共有で使っていた。昔のすしは大きかったから、食いちぎりを醤油につける御仁もいて「二度づけお断り」なんて貼り紙があったというのもご愛嬌ってとこか。

裏へ回ってみよう。つけ台の前には半畳ほどの畳があり、職人はそこに座って握っていた。屋台だけではない。お持ち帰りの店も、座敷に設けたつけ場格子のなかでおっとり座って握っていた。座って握るなど想像もつかない話だが、銀座のタウン誌「銀座百点」にすし職人の対談があり、「立ち仕事に変わったときは、腰が座らなくって」とだれぞが言えば、「ぼくなんかまだ座りダコがある」といった調子。昭和32年の対談だが、座って握る記憶はまだまだ鮮明である。いやいやすしだけじゃない。江戸の料理本をひっくり返すと、まな板を板の間なぞに置き、トントンやっている絵がのっている。座って料理するのは当たり前のことだった。座りから徐々に立ち仕事へと変わっていくのは、大正末の関東大震災(1923年)以降となるようだ。

すし空間のステップアップ

d (『料理通』東京書房社)

昭和初期、すしの屋台は黄金期を迎える。神楽坂の「都」という屋台(d)は、随筆や小説にも登場するほどに名を馳せる。「すしは寒月を天井に味わうことこそ趣味がある」と喝破したのは江戸っ子の人形作家山田徳兵衛さん。

しかし、職人にとってみれば、屋台はいわばスタート地点。屋台で贔屓筋をつかみ、せっせと蓄えもし、床店に入るのが夢。床店とは土間に屋台を据えたような造りで、往来に向けてつけ台を設け、立ち食いさせる。ささやかながら雨露しのげ、水も火も自由になるわけだ。

やがては母屋もある内店を持つ身となれば、出前や土産用のすしを注文で作ることになる。先の與兵衛の店などが持ち帰り専門であったように。それが格式あるすし屋の姿だった。

やがて内店は、椅子席を設け、そこで食べられるようにもなっていく。しかしながら、屋台を忘れぬ店も多かった。昭和2年生まれ、上野の「初音鮨本店」のダンナが子供のころの思い出を語ってくれたことがある。

「私が生まれてすぐに内店ができ、入るとすぐに座敷があって職人はそこに座って握ってました。それで夜になると仕込みは店でやって、鳥越キネマあたりに屋台を張ったんですね。キネマじゃ徳川無声が活弁やってました」

町から屋台が消えていったのは、昭和14、5年ころから。交通法や公衆衛生法上、芳しくないとのお達しがあってのことだ。そして、戦後はまったく姿を消してしまう。

しかし、冒頭の建築写真集にあるとおり、どっこい屋台は生きていた。カウンター上に屋根をつけるという妙案は、大工さん、はたまたすし店経営者によるものか。いずれにしろ自然な発想であったに違いない。屋根は取り払われ、すっきりとした雰囲気に変貌した現代のすし屋、その向こうに私は屋台の昔を想像し、すしを食べるのがまたまた楽しい気分になる。

「アタシがつくるすし屋はこう」と言って譲らない職人の話

語り─内田幸男(鮨店舗内装工事業 株式会社アサクラ)

すし屋のカウンターってのは、昔から檜だ。いいよ、檜は。いいヤツは醤油こぼしても染み込まないんだ、これが……。

アタシは飲食店の内装業っていっても、すし屋のみ。生まれは福岡県の朝倉。だから屋号はアサクラ。東京へ出てきたのは、オリンピックの明くる年の昭和40年。福岡県立浮羽工業高校の木材工芸科を卒業して、人形町の家具屋に入ったんだ。そこにいたのが2年ちょっとであとは一匹狼。なあに職人てのは、仕事はやりながら覚えてくんだよ。

若いうちはいろんなとこやって、ま、すしに傾いてったのは、渡りのすし職人の藤本繁蔵に出会ってだ。藤本さんは渡りだからいろんなすし屋に顔がきく。それで銀座の「きよ田」をちょっとやらしてもらった。待合席みたいなコーナーね。だけどあれはショックだったな。仕事終えて、金もらって明くる日、行ったらない。壊されてた。藤本のオヤジ、気に入らなかったんだね。藤本繁蔵ってのは、鎌倉行ったら衝立や屏風を買ってくるとか、なんかひとつ趣味があったんだ、内装にも。すし界の千利休って、アタシは思ってるけど。

そのうちに紀尾井町にできる「青木」の内装一式をやらしてくれた。アタシが40前のときだったかな。藤本のオヤジ、毎日、現場に来ちゃ、見てんだ。照明器具を選ぶときは、ヤマギワ電気までついてきた。それで、ウチの予算じゃ2、3万ってとこを、イタリア製の9万もするすごいヤツ、じっと見てんだ。「これがいい」って。言いだしたら譲らない人だった。

ま、アタシも同じかな。スケルトンからベニヤ板で一式同じように作って見せて、さぁ、工事が始まった。そしたら言うんだ、「なんでこんな頑丈なもの作るんだ」って。屋台的な簡単なもの考えてたんだろうね。

これがアサクラ流の本格的なスタートだった。そして、今のスタイルができた。上野毛「あら輝」、銀座「さわ田」、みなアサクラ流。アサクラ流ってのは、一枚板の檜のカウンター据えて、あと余分な装飾はいっさいなし。すしネタの色、お客の服の色。それでもう充分なんだ。中心は親方の握るすし。手元に一点を集中させたいんだ。できればネタケースも隠したい。でも、こればっかりは、修業先のやり方を踏襲するからね。勘八系はネタケースを出しておく。勝どきの「鮨さヽ木」もやったけど、勘八系だからネタケースを作った。といってもウィンドケースはダサイ。つけ台のとこに落としこむようにした。モノは見せないほうがいいんだ。

内田さんが手がけた「鮨さヽ木」の店内。余分なものをそぎ落とし、すしが、そして何より主と客の姿が映える。

お客と握る板前との距離はだいたい1000トビ50(ミリ)。まな板の幅が尺2寸。包丁が1尺として、まな板は2寸は多く取らないと、包丁が引けないからね。つけ台が30センチ。カウンターが40センチ。合計で1000トビ50。1メートルちょっと、ちょうどいい距離感だ。

といっても、カウンターの檜の材がなぁ。43センチでいいのがあればそっち。ほんとうにいいヤツは少ないんだ、これが。檜は、木曽福島の上松の大問屋と30年からの付き合いで、アサクラが狙ってるモノわかってるから、そこに頼んでます。いい檜ってのは育ちからして違うんだ。山の南向きの斜面で水はけのいいとこに育つ。そういうとこの檜ときたら、木心、木肌がいいっていうか。肌がピーンと張って、きめが細かくて。白金じゃねえけど、いいとこ育ちのお嬢さんだ。いや、樹齢で300年てとこだから、お嬢さんとはいえないか。

そうだよ、300年。握りが生まれる前の木だ。一抱え近くはあるかな。根元近くはいけない。上のほうを使う。それでまず切り出して皮をむき、買い手が決まるまで自然乾燥させとく。注文があるわな。カウンター用の材は、芯をはずしたとこ使う。芯のとこは、割れたりひねりが出るんだ。外側もはずす。この部分は白太といって、成長過程なんで弱いし腐りやすい。芯と外はずして、40センチ幅だよ。昔と違っていい檜は減ってるから、高いよ、そりゃ。カンナひと削り分でラーメン一杯食える値段。「アサチャンは工事の見積もりが出ない」って言われるけど、大雑把にしか出せないんだよ。値段で探したら、アサクラが狙うモノは見つからないんだ。

カウンターは組み立て式です。木というのは絶えず呼吸してるわけ。すし屋は乾燥と湿気が一日で極端に違う。檜は湿気に強いったって、辛い場所だ。組み立て式だと湿気と乾燥で膨張、収縮をくり返しても対応できんだね。それと古くなってきたら、取りはずして表面を削ることもある。すると新品同様。一生モンですよ、檜ってのは。

工事が終わると、牛乳を塗るんです。人肌がいいってのかな。手のひらに落としてから、カウンターにこぼして柔らかいスポンジでそっと塗っていく。納めたとこ、牛乳で手入れしてるとこ多いんじゃないかな。お嬢さんの牛乳マッサージってとこだ。イヤ、お嬢さんじゃねえや、300年はいってるもんな。


福地享子 ― 雑誌や単行本の編集、文筆業をこなしつつ、築地の魚河岸でも働く。その経験と知識を生かした著書に『築地魚河岸猫の手修業』(講談社刊)がある。江戸の食文化探訪も趣味のひとつで、暇さえあればせっせと古本屋通いする日々。

本記事は雑誌料理王国第150号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は第150号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。


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