「世界のベストレストラン50」上位にレギュラー入りし、ラテンアメリカの食の世界に新しいムーブメントを起こした「D.O.M(ドン)」。サンパウロにその革新的なレストランを開店して以降、オーナーシェフのアレックス・アタラさんは誰も関心を払わなかったアマゾンの食材をベースに、コンテンポラリーな料理を提供して世界から注目されてきた。ブラジル大使館、ぐるなび総研、ぐるなび主催の「特別セミナー」のために来日したこの南米一のシェフは、どのように誕生したのだろうか――。
――19歳の時にベルギーのホテル学校で料理の世界に入られたとか?
リュックを背負って国を出て、ヨーロッパで見るものすべてに魅了されました。でも、ビザなしの違法滞在状態にはなりたくなかったので、お金を稼ぐためにベルギーでペンキ塗りの仕事に就いたら、仲間が料理を勉強していた。これなら食べ物に困ることはないだろうと思って始めたら、料理の世界に魅了されたんです。でも一生の仕事にするつもりはありませんでした。
──それがなぜ今まで続いた?
イタリアにいた時に結婚して、妻に「もうヨーロッパにはいたくない、外国人であることに疲れた」と言ったら、「帰りたいならひとりで帰りなさい」と。彼女は大学を卒業するつもりでイタリアに来ていたので。
──それで踏みとどまった?
そう。そうしたら3カ月後にスーシェフに昇格した。料理の勉強を始めて5年後のことでした。本当に嬉しくて。妻に、「ほらご覧なさい、あなたは自分がやっていることで、一番すばらしいことの価値を認めないから」と言われた。その時に初めて、一生の仕事にしようと思ったんです。
──子どもの頃からの夢は?
動物が好きだったので、獣医とか生物学者を夢見たんです。
──料理の世界に入って、もっとも苦労したことはなんですか?
当時は非常に厳格で。黒い靴でないといけない、髭を生やしてもいけない……。でも、一番厳しいのは毎日、昼夜働かなくてはならないこと。
――その中で、料理人としてひとつずつ何を学んでいったんでしょう?
フランスでは、複雑な仕事をすることを覚えました。姿勢まで厳しく言われ、まるで軍隊みたいに常に戦いに備えるような中で、数多くの素材を使って何時間も何日も煮て、完璧なデミグラスソースを作るとか。イタリアでは逆。シンプルな少ない素材で仕上げる。特定の素材が飛び抜けないようにすることが難しい。スパゲティアリオーリの素材はニンニクとスパゲティと塩だけ。3つの微妙な組み合わせは決まっている。それを10皿、50皿作った時に、常に同じ味を出せること。安定して、常に同じ結果を出せるようにということが、シンプルでありながら難しい。
──1994年に故国に。なぜ?
長男が生まれるのでサンパウロへ。5年後にオーナーシェフになった。
──ヨーロッパとブラジルでは料理の世界にギャップがあったでしょう。
大きな違いがありました。97年ぐらいまで、世界ではフランス料理、イタリア料理が中心でしたが、98年あたりからスペイン料理が目立ちはじめた。世界中にいる若いシェフに注目が集まるようになり、ペルーとかブラジルという非ヨーロッパの料理人にも注目が集まるようになった。ブラジル国内でも、ブラジル人であることの誇りをもてるようになった。それまでは、どこかで、ブラジル料理を恥ずかしく思いながら料理をしていたから。フェラン・アドリアが、スペインのカタルーニャでしっかりした料理をやって、世界にはいろいろな料理があると示されたんです。
――どんなレストランを目指した?
18年前、最初のレストランを開いたときに抱いた大きな夢があるんです。それは、ブラジル特有の素材を使った料理を出すレストラン。当時、ブラジル固有の食材は、一般の市場では入手できなかった。それでブラジル各地の友人に連絡をして、それぞれの地域の食材を売ってもらった。そうやって僕の夢が実現したんです。それから15年以上が経って、友人たちは僕の事業のパートナーとなり、新たな職業、つまりその地域の食材を他のレストランに納めるような事業を始めることになりました。
――アマゾンとも出会われた。
自然を守るということは、川や海や森を守ることではなく、そこに暮らす人々を守ることなんだ、と知りました。例えばトリュフを初めて食べた時、おいしいとは思わなかった。そのおいしさを学ぶ必要があった。そういう意味でいうと、アマゾンは世界でもっとも多く、そういった学びのある、味の宝庫だと思います。
――どんな食材があるんですか?
キャッサバの搾り汁から作ったトゥクピーってわかりますか?搾って残ったものがタピオカの原料になる。甘酸っぱい果実のジャンブーとか、世界にほとんど類例のないものです。なかなかブラジル以外に広めることは難しいでしょうけど。
──キャッサバの搾り汁を、アマゾンではトゥクピーと呼ぶんですね。
搾り汁が自然発酵するんです。アマゾンは温度も湿度も高いから。ただし、そのままでは毒性がある。これに地元のハーブを加えて1日煮ると、シアン系の毒が蒸発して、毒ではなくなる。それがブラジルで一番のうま味成分なんです。そういう食材や知恵が、アマゾンにはまだ生きています。
──つまり、これからは自分のアイデンティティをきちんと踏まえた料理が大事になってくるということ?
例えば、ブラジルという自分のルーツ、アイデンティティの中から得てきたものの本質を理解し、その要素を分解し、もう一回再構築していくことが大事だと思います。
――ヨーロッパとブラジルが、今のアレックス・アタラを作った?
さまざまなことに非常に好奇心の強い少年。それからいろいろなことを試す料理人。誇り高いブラジル人。それが今の僕を作ったと思います。
──アタラさんのお料理は、非常にダイナミックで、ちょっとラフな感じがするのに、料理自体は超繊細。オーナーシェフとして、もっとも大事なことは何だと思いますか?
難しい質問ですね。そもそもビジネスですから、利益を出さなければならないし、損失を出すわけにはいかない。自立して回らなければならない。かつ、素材などについて勉強して調査する余裕がないといけない。
──どうそれを両立させている?
人それぞれ豊かさの水準というものを持っていて、どれくらいで満足するか、だと思います。自分としては子どもが心配なく育って、生活できればそれで十分なんです。
──「足るを知る」ということですね。だから前に行ける。料理人にとってもっとも大事なことは何ですか?
30年間、なぜ情熱を持って続けてこられたか、もちろん自分自身の料理を追求することは基本ですが、今アタラ研究所では、自然から鍋までのつながりのすべてについて考え試みながら、学んでいます。そういう問題に対して、他のシェフたちにも目を向けさせることができたのは大変よかった。ところが、僕は料理をする訓練は積んできましたが、本を書いたり、インタビューを受けたり、レストランを経営したりという訓練は受けていない。だから、自分には準備ができていないんじゃないかというプレッシャーを今も常に感じ続けている。いかに難しいか、準備ができていないな、という感覚です。でも、それがあるから逆にいろいろなことに挑戦できる。星付きのレストランを経営することがいかに難しいかを知っていたら、始めなかった(笑)。研究所を運営するのがいかに難しいか、知っていればプロジェクトもやらなかった(笑)。
――では、今のシェフの夢は?
ブラジル料理はフィージブル、実現可能な夢だと証明したい。ブラジル料理を通じて、人々は旅をすることもできる。ブラジルに誇りを持つこともできる。素材は極めて健康的で、文化的にも社会的にも環境面でも非常に健全なものです。実現するために、この瞬間を一生懸命集中できるように、心の平安を持ちたい。
――若い料理人たちにアドバイスを。
いわゆる料理人というのは、高レベルなアスリートと同じ。ライバルに勝ちたければ、彼らよりももっともっと練習しなくてはならない。もちろん体を維持するためには、頭もしっかりしていないとダメ(笑)。日本の状況はわかりませんが、南米の若い人は、料理の世界に入って、早くシェフになりたい。すぐ簡単になれるという頭で入ってくる人が多い。
――どんな世界でも、近道はないよ、ということですよね。大変深いお話をありがとうございました。
Alex Atala
ブラジル・サンパウロ生まれ。19歳の時にベルギーで料理人としてのキャリアをスタートさせる。その後フランス「オテル デ ラ コートドール」などで研鑽を積んだのち、イタリアへ。1994年に本国に戻り、99年サンパウロに「D.O.M.」を開店した。同店は「世界のベストレストラン50」に2006年から毎年選出され、2012年には4位に。
民輪めぐみ=インタビュー、構成 星野泰孝=撮影 ブラジル大使館、ぐるなび総研、ぐるなび=取材協力
本記事は雑誌料理王国2017年9月号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は2017年9月号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。