大英帝国の昔、インドに駐在していたイギリス人たちはあっという間に現地キュイジーヌと恋に落ちた。その料理を本国へ持ち帰り、100年以上かけて自分たちの味を作り上げた。昨年創業したロンドンのインド系パブ「タミル・プリンス」は、その歴史の延長で究極の進化系を体現している。
英国とインド。2つの全く異なる文化が、英国による植民支配の後、長い年月をかけて着実に融和を遂げてきた。いや、正確には食の分野で、と付け加えねばなるまい。
植民支配を解いた1947年以降、英国ではインドの人々を移民として大量に受け入れてきた。それによりインド・コミュニティーが育ち、本格的なインド料理店も次々と立ち上がっていった。しかし当時は差別的な対立もあり、インド人たちが楽しく飲める場所をと、1960年代から英国に帰化したインド人が経営するパブが少しずつ誕生し始めた。いわゆる「デシ・パブ(Desi pub)」である。
「デシ」とはサンスクリット語で「土地」「国」などを意味し、英国では転じてインド的な文化を総称して指す俗語になった。デシ・パブは、長い伝統を誇る。大規模なインド人コミュニティーができたイングランド中部で誕生し、ロンドンをはじめ各地にもデシ・パブが開業し始めた。そこはインド人が安心してビールを飲み、パンジャブ料理を食べながら、同胞と交流ができる場所だ。現在は、英国全土に200軒を超えるデシ・パブがあるという。
そして昨年、ロンドンに究極のデシ・パブ、タミル・プリンス(The Tamil Prince)が誕生した。ロンドンにおける食トレンドを詰め込んだような、ドリーム・パブだ。
タミル・プリンスは、南インドのタミル・ナードゥ州出身のシェフ、プリンス・ドゥライラージ(Prince Durairaj )さんと、ロンドンで今最も勢いのあるレストラン・グループ、JKSでジェネラル・マネージャー職を経験したイギリス人のグレン・リーソン(Glen Leeson)さんによる共同事業だ。
シェフのドゥライラージさんは、実はマレーシアのストリート・フードで大ブレイクしているブランド、Roti Kingのエグゼクティブ・シェフだった人。ふわふわのナンのようなロティチャナイをロンドンに広めた立役者でもある。ロティチャナイそのものが南インドからマレーシアに持ち込まれた料理である事実を踏まえると、南インドにルーツを持つドゥライラージさんとの繋がりが見えてくるというものだ。
現ロンドンにおけるアジア料理市場で最注目のRoti King、そして敏腕JKSグループという2つのビジネスを経験した二人の共同事業だからこそ、隠れ家的なロケーションにもかかわらずタミル・プリンスはさっそく要注目の店なった。それはシェフの仕事が、これまでにないインド料理を提示しているとロンドナーたちが気づいたからでもある。
その雑味がなくクリアな味わいは、独特のスパイス使いに秘密があるのではと睨んでいる。ブレなく嫌味がない。しかもリッチで病みつきになる。スパイスを自在に組み合わせ、旨味を引き出すことに長けているのだろう。
こうしてオープン直後からカリスマをまとうことになったタミル・プリンスは、言わば「スーパー・デシ・パブ」だ。インド人とイギリス人の両者によって育まれてきた「英国におけるインド料理」の究極の進化形であると同時に、南インドにルーツを持つシェフ自身による古典的なインド料理の現代解釈でもある。
1990年代から2000年代にかけてロンドンでは欧州風の高級インド料理が流行ったものだが、現在はむしろストリート・フードの気軽さと本場の味を求める若い世代が育っていることから、上等なレストラン・クオリティのストリート・フードをパブでいただけるタミル・プリンスは願ってもない存在だ。シェフの力量とカリスマが功を奏し、現在国内レストラン・ランキング98位。デシ・パブとしては最高峰に躍り出ている。この11月には別コンセプトのデシ・パブ2軒目をオープン予定だ。
イギリス人たちは植民地インドで発見したその味をこよなく愛し、18世紀半ばには各種スパイスをミックスした独自のカレーパウダーを発明した。さらには自分たちの舌に合わせてマイルドなカレー料理「チキンティッカ・マサラ」を創り出し、「真の国民食」として賞賛中だ。現在イギリスには18000軒のインド料理店があると言われている。食を通して今後もイギリスとインドの蜜月は続いていくに違いない。
The Tamil Prince
https://www.thetamilprince.com
text・photo:江國まゆ Mayu Ekuni