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「古月 新宿」前田克紀さんが考える。独立に向いている人とは?


お客さまの様子を見ながらつねにやり方を変えていくことで経験を蓄積していく

おいしく食べられて、心身ともに健やかになる。そんな中国料理が食べられる店として評判なのが、東京・新宿御苑前にある「古月 新宿」だ。オーナーであり料理長の前田克紀さんは、この店を奥様の藍さんと一緒に切り盛りしている。同店は、池之端の中国料理の名店「古月」の料理長、山中一男さんから「のれん分け」を許された店だ。以前は新宿支店として営業していた現在の店を、従業員として働いていた前田さんが引き継いだ「のれん分け」という形の独立開業を選んだのはなぜだったのだろうか。

独立開業ができたのは本当に幸運だった

大学卒業後に専門学校へ入学し、就職する際に「古月」の求人票を見て志願したという前田さん。「求人票を見て、ごく普通に希望を出しました。ただ、求人票に中国語の炒め物についての論文がついていたんです。大学では中国の食文化を研究していたので、興味を持ちました。就職の面接で初めてお会いした時に、『そういう勉強をしていたのなら、私もそういう勉強をしてきたから、何かしらあるかもしれないね』ということを言っていただいて。結果的に、師匠に恵まれたということはもう、間違いありません」

山中さんも大学で中国思想史を勉強し、その後、中国料理の道へと進んだ。さらに、ふたりに共通していたのは、フランスの料理書『美味礼讃』と東西で双璧を成すといわれる、中国の高名な料理書、『随園食単』を読んでいたことだった。おそらく、応募してきたなかで『随園食単』を読んでいたのは、前田さんくらいだったのではなかろうか。

「その就職面接の時に、『40年にひとりだな』と、山中さんがご自分の師匠の原田治さん(元「六本木 四川飯店」総料理長)に言われたのと同じことを言ってくださいました。嬉しくて舞い上がりましたね」

その後は山中さんの元で研鑽を積み、8年ほど経って、支店の新宿店を先輩料理人と一緒に任されることになった。そしてさらに、職場で出会った現在の奥様、藍さんと結婚。そのタイミングで、山中さんから「新宿店を譲るから、夫婦でやってみてはどうか?」と、話をされたのだという。

「私はほかの店に勤務した経験がなく、『古月』しか知りません。それなのにお話をいただいただけでありがたかったし、独立開業ができたのは幸運でした」

その後、常連客も変わらず通ってくれたこと、大家であった山中さんの配慮もあり、店は無事に軌道に乗った。今年で6年目、『古月 新宿』 はしっかりと根づいた。

自分の料理が作りたい その時に強みになるもの

独立したいという気持ちは、山中さんに言われる前からあったのだという。それは、自分の料理を作りたい、という希望からだった。その機会が、想定よりも突然に訪れたわけだ。

急な独立開業で、強みになったのは「薬膳」だ。「古月」に勤務していた頃、山中さんに「専門性を持て」と言われたことから、山中さんも詳しく、自身も興味を持っていた「中医学」の勉強を始めたという。日本中国料理協会の会報誌では、山中さんとともに「食養生」という連載を持ったほど、その分野で突出している。独立開業の前には、薬膳の本場である中国の政府も認める「高級営養薬膳師」の資格をとった。その知識は、漢方の専門家も舌を巻くほどで、店では薬膳に関するイベントも行っている。

「独立開業した当時、店の名前こそ引き継ぎましたが、以前のままではいけないと思ったんです。そこでせっかく勉強をした薬膳をおまかせのコースでやろうと」

前田さんが、その知識を活かして季節ごとに提供する「季節の養生スープ」は、昼夜問わず注文する人の多い人気メニューだ。独立開業のために勉強したわけではないが、勤務時間のほかに学んできたことが強みになった。それは長年、安定して雇用されていた環境が可能にしたことだろう。

独立開業をするならできるだけ早いほうがいい

長年、ひとつの店で修業を積んできた前田さんだが、自身は独立開業が向いていたと、現在では思っているそうだ。独立開業に向いている料理人とは、どんな人物なのだろう。

「店の業務全般ができる覚悟がある人、というのは言えます。店を始めると、料理以外の業務が山ほどあるので、とても料理ばかりに集中していられません。料理人としてベテランだったとしても、経営者としては1年生ですから」

独立開業を考えた時、半ば無理矢理、背中を押された形のスタート。資金が苦しいなかでも、その時は「とにかくやってしまおう」と思ったそうだ。でも、振り返ればそれでよかったと、前田さんは言う。

「独立開業は早いほうがいいと思います。私には急にそのタイミングがきましたが、店が成功するにはどうしたらいいかは、今でも分かりません。お客さまの様子を見ながら、つねにやり方を変えていくことで、経験を蓄積していけばよいのではないでしょうか」

独立開業のタイミングをつかみ、店を軌道に乗せられるかどうか。それは、まじめに研鑽を積んで行こうという意思があるかどうかにかかっているのかもしれない。

豚肺と桔梗の蒸しスープ
秋向けの薬膳の代表格である豚肺の入ったスープは、空気が乾燥し、喉や鼻にダメージを受け、風邪をひきやすい季節に食べるべきひと皿。薬膳の世界では、弱っている時にはその部位を食べるのだという。シロキクラゲやイチジクが粘膜に潤いを与え、杏仁は咳止めやタンを切るのに効果があるといわれている

【独立までの道のり】

1977年 新潟県に生まれる

2000年 大学を卒業
料理人になりたかったが、両親のすすめで新潟大学へ入学した。卒業論文で、中国の料理書『随園食単』を読む。

2001年 大阪あべの辻調理師専門学校を卒業
料理人を志し、大学卒業後に専門学校へ入学。もともと好きだった中国料理を勉強することに没頭した。

2001年 株式会社 山中へ入社
専門学校に来ていた求人で就職し、オーナーの山中一男さんと出会う。薬膳料理にも詳しい山中さんからは、学ぶことも多かったという。

2008年 日本中国料理協会の会報誌で連載を担当
山中さんとともに、公益社団法人 日本中国料理協会の「中国料理専科・圓卓」にて「食養生ノート」を連載する。陰陽五行に基づく、体によい食をさまざまに紹介した。

2009年 「古月 新宿店」へ入店
東京・上野の「古月」の支店として営業していた「古月 新宿店」へ入店。先代の料理長と交代で、調理を担当するようになる。

2010年 会社の同僚と結婚
同じ会社に勤務していた藍さんと、職場結婚。突然の発表で、山中さんやほかの社員たちにも驚かれたという。

2011年 高級営養薬膳師の資格を取得
当時、中国の中華中医薬学会に認められた栄養薬膳大師を務めていた山中さんから、資格の取得をすすめられ、日本では取得者の少ない「高級営養薬膳師」の資格をとる。

2012年 株式会社 山中を退社。「新宿 古月」を開業する
支店として営業していた店を、「のれん分け」という形で、山中さんからそのまま引き継いだ。豊富な知識に基づいて、食材を選んで組み合わせることで人を養う、中国料理を提供している。

資金集めの苦労

独立のタイミングがきた!
でも、自己資金は少なくお金も借りられなかった

実は、前田さんが用意できた自己資金は180 万円しかなかった。両親から資金を借り、さらに国民政策金融公庫にも相談へ。しかし、国民政策金融公庫での貸付は「最大で60 万円」という回答だった。

区にも相談に行ったものの、その頃は店舗の景気が悪い時期だったため、取り合ってもらえなかったという。元のオーナーである山中さんには、分割払いで1年で営業権の支払いを終了させる約束をしていた。

「のれん分け」と家族に助けられた幸運

「古月 新宿」が入る物件の大家でもあった山中さんは、自身が開店した時には4000万円もかかった店舗を、「のれん分け」ということもあり格安で譲ってくれたのだという。とはいえ、元になる資金が少なかったため、店の経費に月々の分割払いを上乗せするとなると、資金は本当にギリギリ。
人件費しか削るところがなく、ともに店で働く妻の藍さんとは、毎日のようにけんかになったという。それでも、藍さんは人手の少ないなかで日々の業務をこなしてくれ、おかげで無事に分割払いも終わった。

独立開業を志す人へ
独立開業するなら早いほうがいい。技術がない、お金がないと先延ばしにせず、実際に経験を積めばよいと思います。

古月 新宿
Cogetsu sinjyuku

新宿区新宿1-5-5 御苑フラトー 2F
☎03-3341-5204
● 11:30~14:00LO(火~日)、
17:30~21:00LO(火~土)
● 月休(月1~2日不定休あり)
●コ ース 昼2778円~
  夜5200円~
● 25席
https://kogetu-shinjuku.jimdo.com/

澤 由香(本誌編集室)=取材、文 林 輝彦=撮影

本記事は雑誌料理王国292号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は292号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。


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