【コラム】羊と日本人#2 明治維新富国強兵と羊


第一回:羊はどこから来たのか?はこちらから(https://cuisine-kingdom.com/colum-sheep1/)。

前回は、推古朝から江戸時代までの羊の歴史をまとめました。江戸期までの羊は「献上品」「珍しい見世物」「知らない動物」の段階を経て、「毛織物を作りための素材」としてテスト飼育が始まった時点で明治維新を迎えました。明治期の羊の歴史も「肉」より「毛」の歴史です。そして、羊は戦争を支える戦略物資として取り扱われていくのです。それでは、第二話の始まり始まり。

明治維新、そして、富国強兵には羊が必要?!

テスト飼育が行われていた江戸末期も終わり明治維新を迎え、羊はここで一気に注目を集めます。残念ながら肉ではなく今までの流れの通り「羊毛」です。明治政府の富国強兵政策により、寒冷地での戦闘が発生する可能性が出てきました。毛織物で軍服を作るため、羊毛や毛織物の輸入をはじめます。しかし同時に大きな懸念が出てきました。輸入に頼った防寒具ではもし輸入が止まった場合、日本軍は木綿や麻など防寒性が高くない国内原料で作れる軍服で氷点下数十度まで下がる大陸などの寒冷地で戦わなければならなくなります。当時は保温力が強く水分が染み込まない丈夫な布は毛織物しかありませんでした。そこで明治政府は「羊毛の国産化」を勧めていきます。

明治2年頃より始まったこの流れは、1874年(明治7年)に東京の青山(!)にサウスダウン種が50頭導入され本格的な取り組みがスタート。サウスダウンは肉がうまいと有名なので、毛織物のために導入されたと聞いて少し驚きました。ほぼ同時期にスパニッシュメリノ種も導入されたそうです。

料理王国2020年3月号より抜粋

1875年(明治8年)には下総国三里塚にて御料牧場を開設し3000頭の羊を輸入しました。しかし努力もむなしく、この関東圏での羊量産計画は失敗してしまいます。この計画を主導していた大久保利通が明治11年に暗殺されたことが原因です。三里塚御料牧場は明治21年まではどうにか続いたのですが、結局農地は宮内庁の所管となります。

ちなみに、成田空港が三里塚に作られた理由がこの御料牧場の広大な土地。2020年3月に閉店しましたが「緬羊会館」というジンギスカン店が成田市にあったのも、これが理由です。

※緬羊会館は三里塚の綿羊飼育者の団体でしたが、羊の飼育をやめた後も「三里塚で羊を飼っていた!」記憶を伝えるために、元の組合の倉庫を改造して始めたことがスタートだそうです。私が以前食べに行ったときにお聞きしました。(参考記事:https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/268936

▲三里塚緬羊会館

関東圏以外では、北海道で1876年(明治9年)に畜産業の開拓指導を行っていたエドウイン・ダンにより札幌西部に牧羊場が作られ羊の飼育実験が行われました。しかし、こちらでの飼育実験もあまりうまくいかなかったようです。同じ頃、民間でも岩手県を皮切りに数百頭規模の牧場が開かれましたが、日本の羊毛の質は低く買取価格も安かったせいもあり、こちらも政府の奨励政策の終了とともに下火になっていきました。やはり、肉が売れないことも原因だったらしく毛の他、羊乳、皮、肉など総合的に出荷できないとなかなか利益になりにくいところは、現在の日本の羊飼育の環境に近いと感じます。(最近になり、羊全体を使う取り組みも多く行われるようになりました)

これらの羊飼育初期の失敗は羊の飼育技術が日本向けにローカライズされていなかったことが原因で、これよりしばらく羊飼育は大きな進歩もせずほそぼそと続けられるにとどまりました。

大規模飼育再び。緬羊百万頭計画!

その後、日本が改めて「羊だ!」と重い腰を上げたのが日露戦争後です。零下30度に迫る極寒の中でロシアと戦った日露戦争の経験が元になっているようです。なんせその時の防寒着と言ったら粗末なものしかなく、山羊の毛皮でチョッキを作ったり、カーキ色の布をマントのように巻きつけたりと苦労したそうです。それで骨身にしみたのか明治41年に北海道の月寒に公営の種畜牧場を設立し、国が羊の飼育に改めて本腰を入れはじめました。

そして大正3年になり、第一次世界大戦が始まります。明治の初期に「海外からの羊毛が止まったら軍服作れない!寒冷地で戦えない!」との恐怖からはじまった羊の飼育ですが、その不安が的中します。イギリスが軍事物資である羊毛の輸出を止めてしまい、イギリス連邦であるオセアニアから日本への輸入も停止、羊毛製品が作れなくなってしまったのです。それを受けて政府は大正7年「緬羊百万頭計画」を立て、国内での羊飼育数を100万頭にすることを25年で目指そうとします。政府はこの施策に対し、種緬羊の無償貸付けや払い下げを行うほか技術者の養成や各種の奨励金・補助金の交付などを行うなど積極的に力を入れます。しかし、第二次世界大戦勃発で種緬羊の輸入が止まったことや労働者不足などを受け、終戦の昭和20年に至っても育頭数は18万頭、戦争需要に合わせた飼育数の拡大は結果的に失敗に終わります。

▲北海道の羊牧場(池田町ボーヤファーム)

■次回は・・・・

次回は、緬羊百万頭計画のその後と、昭和30年代の輸入自由化についての予定です。いつの時代も、羊は政治や国際情勢の影響を受け続けている家畜でそれは令和の今でも変りません。次回の昭和から、平成、令和と、時代順にそのあたりも追っていきます。

■巻末付録 近代の羊肉の動き 年表

1868 明治維新以降 明治政府は「綿羊飼養奨励」政策
1894-95 日清戦争
1904-05 日露戦
1908 月寒種牧場に於いて綿羊の飼養を始める 政府「綿羊100万頭計画」:熊本・北条・友部・月寒・滝川の5ヶ所に種羊牧場開設
1914-18 第一次大戦
1922 政府が羊肉商に補助金交付
1924 東京・福岡・熊本・札幌の4食肉商を「指定食肉商」に
1929 世界恐慌勃発により計画中止
1928~29 農林省が全国で羊肉料理講習会を開催
1930 満州事変
1936 日豪紛争*により豪州からの輸入停止 政府は満州での羊毛増産図る
1939 羊毛供出割り当開始
1941-45 第2次世界大戦
1950 朝鮮戦争による羊毛需要の綿羊飼養熱低下
1957 食肉加工品の原料として使用 需要は10万頭/年に増加
1960 ジンギスカンとしての需要が始まる 国産羊肉生産量が過去最高の2,712トンを記録
1962 羊毛の輸入自由化により 綿羊の飼養頭数は減少
1977 この頃から使用目的が羊毛生産から羊肉生産に転化

提供:東洋肉店(URL:http://www.29notoyo.co.jp/

※参考資料など※

国立歴史民俗博物館研究部民族研究系の川村清志先生の公演時の小冊子、畜産技術協会のHP(http://jlta.lin.gr.jp/)また、魚柄仁之助さんの「刺し身とジンギスカン: 捏造と熱望の日本食」、MLA豪州食肉家畜生産者事業団(http://aussielamb.jp/)、ジンギスカン応援隊(http://hokkaido-jingisukan.com/)綿羊会館が以前に出し、担当者さんから頂いたた資料、Wikipediの羊の項目、探検コム(https://tanken.com/)さん、を参考にしています。その他、各輸入商社さんや大使館などが出しているパンフレット情報などが参考になっています。古典解釈は小笠原強(専修大学文学部助教)先生にご協力いただきました。また、東洋肉店(http://www.29notoyo.co.jp/)さん初め多くの方に内容を確認いただきました。その他、羊飼いさんから聞いた話、羊仲間たちからの知識、どっかで読んだ知識などがまとまっています。羊に関わる皆様の知識を素人まとめさせてもらいました。皆さまありがとうございました!


文:菊池 一弘
株式会社場創総合研究所代表取締役。羊好きの消費者団体羊齧協会主席。羊を常食とする地域で育ち、中国留学時にイスラム系民族の居住区に住んでいたことなどから、20代前半まで羊は世界の常識と思ってそだつ。本業は「人を集める事」企画から集客、交渉や紹介など。公的団体の仕事から、個人までできる事なら何でもやるスタンス。最近は四川フェスの運営団体麻辣連盟の幹事長も兼務。監修書籍に「東京ラムストーリー(実業之日本社)」「家庭で作るおいしい羊肉料理(講談社)」がある。

校正とイラスト 金城 勇樹


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