そんな当時のヨーロッパのジェラート・ブームを陰で支えてきた渓谷がある。その名も「ヴァッレ・デイ・ジェラティエーリ」、ジェラート職人の谷と呼ばれる、イタリア北部のドロミテ山塊にあるゾルド渓谷だ。
1800年代初頭は鉄や材木業などで潤っていたが、1世紀内に3回もの大洪水に見舞われ、辺りは壊滅。経済危機に陥った住人は、、国内や近隣諸国への出稼ぎを余儀なくされ、何か独自の産業をと、起死回生を期してたどり着いたのが、夏でも文字通り山ほどある氷を利用したジェラート作り。深夜に山に登って氷を切り出し、ジェラートに仕立てて、毎朝荷台を担いでは近郊の町や、峠を越えてオーストリアやドイツに行商に行く過酷な労働であったという。だんだんと集落ごとの班に分かれて各都市に出稼ぎや移住する人々が増え、ピーク時にはゾルド渓谷の人口の約70%が氷菓業に従事し、ヨーロッパ中にジェラティエーレ(ジェラート職人)を輩出していったという、ジェラート史上注目すべき谷なのである。
現在のゾルド渓谷は、夏冬のリゾ ート地としてまずまずの潤いを取り戻し、1800年代より過疎化にあった人口が15年ほど前より増えだし、故郷に戻ってきている移住組も多いという。
そのなかのひとり、マウリッツィオ・デ・ペレグリンに、昔のジェラートを再現していただくという機会に恵まれた。彼はドイツのハイデルベルグに両親とともに移住し、40年間ジェラート作りに勤しみ、2年前に店を息子に任せて生まれ故郷に戻ってきたジ ェラート職人の谷の生き証人。
この夏、渓谷の中ほどにあるドント村にオープンする予定というジェラート博物館から、1900年製の古い木製の攪拌器樽を広場に持ち出しての特別デモンストレーションに、「私も昔、作ってたのよ」と懐かしそうに近所の人々も近寄ってくる。重い容器を持ち運んだり、氷の塊を金槌で砕いたり、凝固していくジェラートを混ぜたりする作業は、見るからに重労働。ましてや昔は夜中に山から氷を切り出したのだから、さぞや過酷であったろう。
マエストロの手になるアンティーク・ジェラートは、機械製法のように撹拌中に空気が入りすぎず、ふわりとやさしく、なめらかな舌触り。戦後機械も導入され、今となっては幻の作業光景とお手製ジェラート。その味わいはまた格別のものがある。
今、イタリアは新たなるジェラート・ブームである。料理の世界でその可能性が有名シェフたちによって研究されるなど、さまざまなシーンで刻々と進化の兆しを見せるいっぽう、国民の消費量の多さもそれを裏付ける。年間平均消費量は13.5kgと、1カ月にひとり1kg強も食べている計算で、とくにジェラートの発祥の地とされるフィレンツェは、作り手も消費者も意識が高く、2007年から比較すると24%増と全国平均12%の伸び率を大きく上回る。確かにジェラ ート店も、ここ1、2年で急増した。
その背景には、近年の安全性の高い食品志向やグルメブームにより、原料や製法にこだわるジェラテリアの台頭が大きいが、往来のジェラートを漫然と誇っていた古都に一石を投じた「GROM」の影響は大きい。
そんなフィレンツェを訪れたらマストなジェラートはどれか。まずは1930年創業の「ヴィヴォリ」のクラシック・フレーバーと、老舗「バディア ーニ」の伝説の味、ブォンタレンティ。両店とも伝統の製法と味を家族で守り続けている。いっぽう革新派のトップは「ジェラートを料理する」がコンセプトの「カラピーナ」。高品質デザートワイン使用のヴィンサントなど逸品に出合える。独特の豪奢なテイストで大人たちを虜にしている「デ・メディチ」の薔薇チョコレートなどを食べ歩けば、長い歴史の最先端にあるジェラートがきっと見えてくるに違いない。
大平美智子(フィレンツェ)=文 木村金太(ミラノ)=写真
本記事は雑誌料理王国第180号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は第180号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。