近年イタリアではパスタ史の研究が非常に盛んである。ネットやSNSの発達で、それまでごく一部の地方でしか見られなかった幻のパスタが、比較的安易に見られるようになったこともある。同時に、イタリア料理の根源としてのパスタを見直す動きが、料理人の世界だけでなく、ジャーナリストや研究者の間にも浸透しつつあるのだ。そうした研究から、これまで定説とされていたパスタにまつわるありとあらゆる伝説が、次から次へと覆されているのも事実である。その最大の間違いが、マルコ・ポーロが中国からパスタを持ち帰った、という説だろう。
これは1929年に発売されたアメリカのパスタ業界誌『ザ・マカロニ・ジャーナル』が取り上げて以来、80年代まで、公然の事実として日本でもよく取り上げられていた逸話だ。パスタの歴史は粒食から粉食へと人類と共に進歩し、古代ローマ時代にはすでに小麦粉を少量の水でまるめてゆでるという、非常に原始的な料理(ニョッキ)、から、さらにそれを伸ばして窯で焼いたもの(ラーガネ、ラガノン=ラザーニャの語源)までさまざまなパスタ料理が存在していた。仮にこの場合、マルコ・ポーロが持ち帰ったとするパスタの定義をいわゆる日本人がいうところの麺、小麦粉の生地をひも状に伸ばし、時には乾燥させたもの、と定義するならば、それは歴史上完全に間違いであることが証明されている。
24年にわたる東方への旅の後、マルコ・ポーロがイタリアに戻ったのは1295年、その時に中国で見た細長い食べ物を持ち帰り、同船していた船乗りの名前を取ってスパゲッティと名づけた、とされているが、それに先立つこと100年以上前の1154年、アラブの地理学者アル・イドリジが著作『ルッジェーロ王』の中で、「そこには粉挽き小屋があり、農場ではイトゥリアを製造して船旅に供する糧食として広く輸出している」とシチリアについて書いている。
おそらくは食品としてのイトゥリア=パスタにはさほど興味が無かったと思われるが、それよりも注目していたのは、シチリア以外の地方にはない輸出品としてのパスタの存在、しかも「船旅に供する糧食」という点だ。
古代ローマ時代、ローマの穀倉庫と呼ばれたシチリアで始まった乾燥パスタ。その使用目的は船旅などの糧食であった。コロンブスはじめ、大航海時代に大海原に乗り出したジェノヴァ人たちが、自分たちで糧食を作り始めたとしても不思議ではない。
当時地中海は重要な交易路であり、パスタ生産の拠点はシチリアから海を挟んで船乗りたちの街ジェノヴァへと移ってゆく。海からの風がパスタを乾燥させるのに適したジェノヴァでは、シチリアから硬質小麦を輸入、乾燥パスタの生産が始まる。ジェノヴァにある国立公文書館に残された記録によれば1244年には史上初めて「パスタ」という記述が見られるし、1279年には、ある商人の資産目録に「マカロニ1ケース」という記録が残されている。
そしてこれもまた昔からよく言われるパスタの謎のひとつだが、ただでさえ真水が貴重な船の上で、果たしてどうやってパスタをゆでたのだろうか? パスタが持つおそらく唯一の欠点は大量のお湯を必要とすることである。昔からよく言われているのが海水でパスタをゆでたという説。しかし通常レシピ集などでは、1リットルのお湯に5グラムの塩を入れ、という記述だ。この場合の塩分濃度は0・5%。しかし地中海の塩分濃度は3・5~3・8%と、これでゆでたら間違いなく塩辛くて食べられないだろう。
ニョッキの原型はおそらくアラブのキャラバン隊が小麦粉を少量の水で練り、スープの具として食べたもの。同じく水が貴重な砂漠の世界ではうなずける説だが、船上糧食としてのパスタの調理法に関して、納得のゆく文献はまだ発見されていない。
パスタの歴史における激動の時代は、18世紀後半から19世紀後半にかけての約100年間。18世紀半ばにおきた産業革命後、イタリアではパスタの工業化がはじまり、ナポリ近郊グラニャーノなど新興のパスタ生産地が誕生した。そうしたパスタ生産は、イタリアのみならずヨーロッパ全体に広まり、当時合衆国政府初代駐仏大使としてパリに滞在していたトーマス・ジェファーソンは、パリでパスタ生産の機械、その名も「マカロニ・マシン」を購入。アメリカに持ち帰りブルックリンでアメリカ史上はじめてパスタの生産が始まった。そして19世紀になると、イタリア統一運動が活発になる。
トリノを本拠地としたサヴォイア家出身で初代イタリア国王となるヴィットリオ・エマヌエーレ2世、初代首相となるイタリアの頭脳カミッロ・ベンソ・カヴール、そしてイタリアの剣ジュゼッペ・ガリバルディ……。ガリバルディは野戦暮らしで、ストイックな痩せた鷲のような風貌の男だったが、カヴールはグルメで、どちらかという太め。イタリア統一運動の初戦としてガリバルディがマルサラに向けて出航する前、千人隊と別れの杯を交わしたとされるのがジェノヴァの「アンティカ・オステリア・デル・バイ」。現在の看板パスタは「バジリコと甲殻類のラザーニャ」や「オマール海老のニョッキ」である。
前線暮らしのガリバルディとは対照的に、外交でイタリア統一を進めたのがカヴール。統一イタリア王国初代首相となったあと、イタリア国会はトリノのカリニャーノ宮殿に置かれたが、カヴールが執務の合間、毎日のように出掛けたのが宮殿前にある1757年創業の老舗レストラン「デル・カンビオ」だった。現在はカルロ・クラッコの右腕だったマッテオ・バロネットがシェフを務めるが、往年のレシピ「カヴール風アニョロッティ」は健在。これはピエモンテ伝統の内臓料理フィナンツィエラを使ったアニョロッティだ。
イタリア料理史において、そしてイタリア人のアイデンティティとしてつねに中心的位置をしめて来たパスタだが、今日その地位は徐々に揺らぎつつある。現代イタリアでは「太りたくない」という女性や若者層を中心にパスタ離れが進んでいる。また、戦後高度成長期の大量生産のひずみをうけてか、生まれながらにグルテン・アレルギーやさらにはトマト・アレルギーの子どもや若者が増えている。つまり彼らはイタリア人であるのに、パスタやピッツァを口にできないのである。街を歩けば「グルテン・フリー」の看板が。スーパーにも「グルテン・フリー」の商品が多く並び、書店でも「グルテン・フリー」のレシピ集が並ぶ。そんな状況下に置かれながらも、料理人たちが考えるのはやはりパスタ、イタリア料理のアイデンティティなのだ。
ミシュラン三ツ星の店でピッツァが登場することはまずないが、コースの中にパスタは必ず存在する。モデナの三ツ星「オステリア・フランチェスカーナ」で、グランド・メニューに名を連ねるのはエミリア地方の郷土料理である「タリアテッレ・アル・ラグー」や「トルテッリーニ・アル・パルミジャーノ」であり、「ダル・ペスカトーレ」の看板メニューは何十年経っても「カボチャのトルテッリ」である。そうした多種多様なパスタこそがイタリアが持つ文化多様性、カルチャー・ダイバーシティとミクロコスモスを表現しうる唯一の要素であり、イタリアがイタリアたるゆえんなのである。
デル・カンビオ
Ristorante Del Cambio
Piazza Carignano, 2 Torino
☎+39 011 546690
●12:30~14:30、19:30~22:30
●日夜、月休
http://delcambio.it/
マッシモ・ボットゥーラが「世界一の」と形容するトルテッリーニ・アル・パルミジャーノ。モデナの伝統と地域へのリスペクトに満ちている。
オステリア・フランチェスカーナ
Osteria Francescana
Via Stell,22 MODENA
☎+39 059 223912
●12:30~15:00、20:00~23:00
●土昼、日休
www.osteriafrancescana.it
ダル・ペスカトーレ
Osteria Francescana
Località Runate 15
Canneto sull’Oglio – Mantova
☎+39 0376 723001
●12:00~16:00、19:30~22:30
●月、火、水昼休
www.dalpescatore.com
池田匡克(ジャーナリスト)=文、写真
1967年東京都生まれ。イタリア国立ジャーナリスト協会会員、現在フィレンツェ在住。ストリートフードからアルタクチーナまでイタリアの食の最前線を写真と文で取材する。「シチリア美食の王国へ」「フィレンツェ美食散歩」「イタリアの老舗料理店」など著書多数。WEBマガジン「サポリタ」編集長。
本記事は雑誌料理王国253号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は253号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。