西野雅人(にしのまさと)
千葉県柏市で育つ。明治大学卒業後、千葉県の職員として遺跡の発掘や保護の仕事を続け、現在は千葉市埋蔵文化財調査センター所長。大学1年で参加した貝塚の発掘にはまり、それから40年千葉県の貝塚研究をもとに縄文人の資源利用や食文化の解明に取り組んでいる。特別史跡加曽利貝塚を貝塚研究の拠点にして、魅力を発信・活用していきたいと日本酒を飲みながら考えている。
「和食」が国内外で高く評価され、関連する書籍が相次いで刊行されている。そのルーツはいつの時代にさかのぼり、どのように醸成されてきたのだろう。これまでのところ、原始・古代の食に触れつつ、直接のルーツを江戸時代に求める意見が多いようである。古代以前の食についても、古文献や考古学の研究成果が蓄積されているが、こうした視点での検討は遅れており、ルーツをどこに置くかはこれから議論を重ねる段階にある。
ただし、日本各地の食材を探索し、獲得、加工・調理の技術を研き、新鮮な食材を活かした多様な食文化が花開いた縄文時代が、我が国の食文化史のなかで大きな画期となったことは疑いのないところである。和食のルーツは「縄文鍋」にある、とわたしは考える。そう自信をもって言えるのは、1980年代から積みかさねられた縄文貝塚の調査研究によるところが大きい。
縄文人の利用した食材がとても多いことは、坂詰仲男『日本縄文石器時代食料総説』(1961年)によって昭和30年代から知られていた。しかし、多い・少ないという情報は遺跡間の比較には役に立たない。貝塚の貝層を持ち帰り、フルイを使って選別、貝や骨を1点ずつ同定する方法が昭和50年代の後半に導入されたことにより、具体的な食の実態が見えてきた。筆者が長く関わってきた千葉県の貝塚研究をもとに食文化の変遷過程や縄文人の食の特徴についてお話したい。
わたしたちの歯は雑食に適した形をしている。だから、ヒトが肉食動物として生きた長い道のりを忘れてしまいがちである。定説によれば、私たちの直接の祖先である現人=ホモ・サピエンスは約20万年前にアフリカで誕生した。一昨年命名されたチバニアン(千葉時代)後半のことである。約10万年前に世界各地へと旅立ち、約4万年前に古本州島(本州・四国・九州)に上陸した日本人の祖先は、その後、古北海道半島に渡ってきた人たちと合流した。氷期と呼ばれる寒冷な気候のなか、関東付近の台地には広大な草原が広がり、東京湾はまだ存在しなかった。野生動物の狩りがおもな生産手段であり生活そのものだった。
チンパンジーと分離したヒトは、類人猿のなかで唯一肉食を強化し、小さな集団で動物を追いかける「遊動生活」を長く続けていたのである。
最終氷期のピークが過ぎた約16,000年前、土器の利用がはじまる。縄文時代のはじまりである。しかし、土器の利用は長い間広まらず、引き続き肉食と遊動の生活が長く続いた。ようやく土器の利用が拡大するのは約10,000年前である。このころ、東京湾や現在の利根川・鬼怒川などの深い谷川に沿って細長く深い内海ができ、台地上には落葉広葉樹林が広がり始めた。環境の変化と土器(土鍋)の利用によって、動物以外の食材利用の萌芽がみえる。神奈川県の夏島貝塚や千葉県の西の城貝塚などの貝塚出現は、定住生活の証拠とみる意見が多い。しかし貝塚の数はごく少なく、遺跡分布は圧倒的に内陸部に集中していることから、魚貝類や植物質食材の利用はなかなか流行らなかったとみるべきである。
長い人類史のほとんどは肉食と遊動の時代だったといえる。生活が変化を見せるのは今から約7,000年前、縄文時代に入ってから9,000年も過ぎてからのことだった。
第二回「二つの画期-雑食化と定住化-」に続く