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名匠のスペシャリテ「ホテル メトロポリタン エドモンド」中村勝宏さん


美しい菜園をイメージしたガルニチュールと、ソース・トリュフを纏った蒸し蝦夷あわび。その手前には、セミドライトマト、赤ピーマン、アーモンドとオリーブオイルなどで作ったカタロニア風のクーニーを、絵を描くようにスプーンで流しました。

この皿は、2008年の北海道洞爺湖サミットで総料理長を仰せつかったときに、日本の食材の素晴らしさを味わっていただこうと考案したひと皿です。

前年の12月、すでにサミット会場に決定していたザ・ウィンザーホテルに招かれ、休みなしで準備に明け暮れました。単身でしたから、歳にして、寮には寝に帰るだけの日々でした。

本場のフランス料理を学びたい。その情熱だけを武器にフランスへ向かったのは26歳のときでした。パリでは当時二ツ星だった「ルレ・ガストロノミック」というレストランに運よく職を得ました。シェフのマルセル・メリアス氏は、長年「マキシム・ド・パリ」でスーシェフを務めた方。当然、この店ではフランスの古典料理というべき、伝統的な料理でした。ありがたいことにフランス料理の基本を身につけることができたのです。今なお、私のテリーヌなどの作り方は、ここで習得した技術が基本になっています。

その後、アルザスの二ツ星レストランと、コートダジュール唯一の三ツ星レストラン「ロアジス」でそれぞれ約2年、共にシェフ・ソーシエとして働き、再びパリで、当時の魚介料理ではもっとも有名だった二ツ星レストラン「ラ・マレ」では、シェフ・ド・ガルマンジェとして働くことができました。ここではMOFのシェフのジャガー・ルイヤーさんに出会いました。ヌーヴェル・キュイジーヌの大波がフランス全土に押し寄せている時期でしたが、悠然とわが道をゆくクラシックが基調の料理でした。

古典をきっちりと踏まえてこそ進化がある

フランスでがむしゃらに働いて7年目、パリ7区のレストラン「ル・ブールドネ」(別名ラ・キャンティン・デ・グルメ)でシェフとして働くことになりました。じつは、今にもつぶれてしまいそうな小さな店でした。私はそれまで自分が磨いてきた技術を基に、忠実にていねいな仕事をすることだけを心がけました。お客さまに来ていただこうと必死に格闘する毎日でした。その後、10カ月目でミシュランの一ツ星という〝、巨大で重い星〞を背負うことになったのです。しかし、あの日々があり、多くの人との出会いがあってこそ、今があると、常々心からの感謝の念を忘れません。

フランスでの14年を経て、今度は妻と2歳の娘を伴って成田空港に降り立ちました。あっという間の31年が過ぎ、私は71歳になりました。

テーマは「食の環境」。「日本のフランス料理」を意識したこのスペシャリテは、今も折々に作っています。洞爺湖サミットで私の下で働いた隈本香己君が「第64回プロスペール・モンタニエ国際料理コンクール」で、日本人として初めて優勝の栄冠を勝ち取りました。

その喜びを胸に、若い料理人とともに、私も微力ながらこの世界でお役に立ちたい所存です。

蒸し蝦夷あわびのソース・トリュフとカタロニア風クーリー、プチレギューム添え
春の訪れが香り立つ、なんと美しいひと皿か。蝦夷あわびの殻に飾られた野菜たちは、それぞれに美味なるハーモニーを奏で、トリュフのソースを纏った蝦夷あわびはしっとりとした風味と深い旨味を上品に主張する。各国首相も至福のひとときに酔いしれたに違いない。

Katsuhiro Nakamura
1944年鹿児島県に生まれる。26歳で渡欧。フランス各地の名レストランでセクション・シェフとして研鑽を積む。1979年パリのレストラン「レストラン・ラ・キャンティン・デ・グルメ」のグランシェフ時代、日本人初のミシュランの一ツ星に輝く。以降4年半、星を維持し1984年帰国。ホテルエドモント入社、常務取締役総料理長として活躍。2008年の北海道洞爺湖サミットでは総料理長を務める。2009年日本ホテル取締役就任。2010年フランス共和国農事功労章オフィシエ叙勲。ゴブラン会会長、農事功労章受章者協会会長、クラブ・ガストロノミック・プロスペール・モンタニエ日本支部副会長。日本のフランス料理界の第一人者として様々な活動に取り組んでいる。著書多数。

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長瀬広子=取材、文 依田佳子=撮影

本記事は雑誌料理王国2015年3月号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は2015年3月号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。


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