フランス料理初上陸!?ペリーの洋上ディナーで料理に酔った日本人


ペリーの洋上ディナーアメリカが日本人高官に振る舞ったフランス料理とは?

日本が開国に揺れていた頃、横浜にアメリカ経由でフランス料理がやってきた。日米和親条約締結直前の正餐会では、どんな料理が提供されたのか。
横浜食文化研究会代表の草間俊郎さんに教えていただいた。

甲板上での正餐会

嘉永7(1854)年3月27日、日米和親条約妥結の見込みがつくと、ペリー提督らアメリカ側は、日本側の折衝担当、幕府、親藩の重臣など、約70人を招いて横浜沖の旗艦・ポーハタン号内で宴会を催した。この宴会についてご説明しよう。

ポーハタン号はスチーム・フリゲート艦として1852年に建造された、当時の最新鋭軍艦である。甲板上の昇降口には米国国旗と徳川将軍家の家紋の旗が掲げられていた。日本人一行はこの歓迎ぶりに驚きつつ、船内を見学し、その後、ふた手に分かれて各宴会場に赴いた。林大学頭(はやしだいがくのかみ)ら代表団5人の委員はペリーの船室に案内されたが、その他の高官や随行者らは甲板後方に設営した天幕の下へと連れていかれる。

甲板の宴席ではすでにテーブルに料理が並べられていた。ペリーは、パリで修行した総料理長(フランス人で、アメリカに帰化したと見られる)に立派なごちそうを用意させた。これが、目を楽しませ、食欲をそそるフランス料理であった。

ペリーはこういった宴会のために、生きたままの牛、羊、鳥、家禽を船内で飼い、魚、野菜、果物、貯蔵肉(ハム類)、ワインなどを豊富に用意させている。当時の英字紙は、肉類、野菜、ペストリー、フルーツなどを用意したと報告している。

ポーハタン号の甲板上にはアメリカの士官らが集まり、日本人の接待を行った。甲板上のぶたいにはふた組のアメリカ軍バンドが登場し、音楽を演奏し始めた。

ペリーの自著では、料理はローストビーフやフリカッセを提供したと記されている。スープや塩漬物、ジャムなども出されたようだが、日本人はこれらをごたまぜにして胃に詰め込んだという。

日本人は、牛舌がお好き?

この正餐会についての日本側の記録は、奉行所役人による「種々厚き馳走の由 酒肴等ハ多分 豚抔の類ひなるべし」とか、村名主の日記の「異人より長々ご苦労ニ預かり御礼饗応の由」など、簡単な内容しかない。

だがこの度、招待者の体験記録が見つかった。水戸藩の重臣・菊池富太郎は、元藩主・徳川斉昭からアメリカ軍艦の調査を命令され、横浜に派遣された人物。彼が残した記録がご子孫から筆者に提供されたので、食材の関連を読みくだしてみよう。

「料理では、牛肉、牛舌、豚肉などの塩煮などがあり、薄赤色で甘酢味の酒、焼酎のごときもの等が出された。牛肉、牛の舌肉が最もよい味がした。しかし自分自身はあまり、飲み食いはしなかった。チャンスを見てペリーに近づき、酌をしようと指をさしたところ、(勘違いした)ペリーが酒の魚を取ってくれた」(菊池富太郎の文書より一部を抜粋し、現代語で要約。カッコ内は補足)

ちなみに牛舌は誤訳で、牛バラ肉ではないかと筆者は推測している。

料理に、酒に酔った、日本人

いっぽうペリーは、自分専用の部屋にアダムズや艦長4人、自身の秘書、通訳のウィリアムズを着席させて、日本側代表団5名の委員(林のほか、井戸対馬守(いどつしまのかみ)、伊沢美作守(いざわみまさかのかみ)、鵜殿民部少輔(うどのみんぶしょうゆう)、松崎満太郎)を迎え、テーブルを共にした。全員が着席すると、すぐに料理と洋酒が運ばれた。

日本人客は、牛肉、羊肉、鶏肉などの肉料理やペストリーをはじめ料理を全部味見したが、それは食欲よりも好奇心からだったようだ。日本人は出てくる料理の名前を知りたがった。通訳のウィリアムズは「葡萄酒、ミート、砂糖煮、練粉菓子やその他の珍味などを、一つ一つ彼らに教えた」と自著に書いている。

宴の合間に、ペリーは大君の、林は大統領の健康を祈って乾杯し、その後、委員代表の各位、提督、艦長の健康を祝す乾杯が続いた。乾杯が終わると、日本人は大変くつろいだという。宴会の終わり頃、デザートに日本側各委員の家紋付きの小旗をさした大きなケーキが4つ出された。

アメリカ側は、料理名を全て日本人に教えることができ、西洋料理についての彼らの関心を深められた、としている。小旗つきのケーキも日本人客に好評だったようだ。ペリーは、日本の「委員たちは健啖ぶりを発揮」し、料理は「魔法のように消えてしまった」と満足げで、ニューヨークで有名なデルモニコ料理に劣らぬ「豪華な料理」を一週間かけて準備させた甲斐があったと回想した。

では日本の高官、つまり幕府応接掛らはどのようにかんさつされたか。

林は控えめではあったが、すべての料理、ワインを賞味したという。他の委員はみな、リキュール、特にマラスキーノを大いに飲み、大食家であった。このように場の陽気な雰囲気を心から楽しんだとし、特に松崎満太郎は食通で、シャンパーニュ等を大いに飲んだという。

夕方5時半頃には全員が甲板に集まり、バンドの演奏で愉快な歌を聞き、面白い余興を見ることになる。互いにワインを飲み交わし、親しげに接触した。かなり酔った日本人もいたようだ。宴会が終わると日本人は料理の残り物を持ち帰った。ペリーはこれは日本人が習慣に従っただけだと言いながらも、料理を包む時に、肉もシチュー、ソース、シロップも種類におかまいなく包み込むのは奇妙だと述べている。

当時の言語が通じがたい状況下でこれだけの親善交流ができたのは、ペリーの緻密な企画、組織により、日本側を招待した宴会等に負うところ大である。これにより、4年後の1858年の日米修好通商条約の交渉が円滑に進み、自由貿易の礎石をつくったといえよう。


草間俊郎 文、Pololon 草間イラストレーション

参考文献 ●『Narrative of The Expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan』(マシュー.C.ペリー監修)●『ペリー日本遠征日記』(雄松堂発行、金井圓訳) ●『ペリー日本遠征随行記』(洞富雄訳)● 英字紙(「ニューヨーク・タイムズ」「ニューヨーク・デイリー・タイムズ」「ニューヨーク・オブザーバー」「タイムズ」)

本記事は雑誌料理王国第165号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は第165号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。


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