「親父さんのビーフシチューは格別だった。けれど、あなたのこのまろやかな味わいも何ともいえない」
20年ほど前、私が50代の頃でした。父の代からのお客様が、こうおっしゃって、「黒毛和牛の三枚肉のビーフシチュー」をいかにもおいしそうに召し上がってくださいました。ありがたくてうれしくて……。私は思わず涙ぐんでしまいました。
その方は、当時90歳に手の届くほどの高齢でしたが、父から私へと受け継がれた「レストラン吾妻」のスペシャリテを、こよなく愛してくださった。そして私のビーフシチューが父の味を超えた、と褒めていただいた。やっと父に報いることができたと思いました。
私の祖父・周吉が東京・市谷台町で洋食店「台町食堂」を開いたのは大正2(1913)年のこと。祖父は英国生地の輸入商で香港、シンガポールなどへ出かけていた実業家。
進取の精神に長けた人だったようで、当時の最新のライフスタイルに興味を抱き、フランス帰りのシェフを招いて「食堂」をオープンしたのです。そして、周吉の息子の政次、私の父が二代目として後を継ぐことになりました。父は日本の洋食の王道を歩いた料理人で、後に大正天皇、昭和天皇の料理番として名を馳せた秋山徳蔵のもとで修業時代を過ごしました。私は「台町食堂」で生まれましたが、もの心つく頃には、ここ隅田川東岸の吾妻橋に移り、父は店名を「台町食堂」から「レストラン吾妻」と改めました。
若い頃は生意気でしたから、父に文句を言ったりしましたね。あれは大学を卒業して、ホテルで働いていた頃でした。「うちのビーフシチューには、冷たいポテトサラダが付くけど、これは洋食のセオリーからは外れている。温かい料理には温かい付け合せが決まりだ」と、得意げに言ったことがあります。父はぽそっと言いました。「日本の食文化には箸休めがある。冷たいポテトサラダがその役割をしている」と。
この言葉をはじめ、父の残してくれたすべてが今、実感として、私の心にすっと落ちていきます。でも、ビーフシチューに関しては一点だけ、私流のやり方を通しています。私は、このオープンキッチンで「ビーフシチュー」のお声がかかってから、ベースになるデミグラスソースに、黒毛和牛のアバラ肉の塊を煮込んだシチューソースを加え、マンゴチャツネを溶きながら火を入れます。仕上げに加えるのは、マデラ酒とボルドーの赤ワイン。
もちろん、ビーフシチューの「命」は、デミグラスソースに始まる手間をかけた仕込み。父はシチューソースにデミグラスソースを加え、煮込んだものを、先に作っていました。私は、料理は仕上がったその瞬間に食していただきたいので、ビーフシチューの最後の決め手となる仕上げは、お客様の目前で心を込めて披露しながら調理します。そして、ご希望ならば、炊き上がったばかりの白いご飯を、お付けしています。
もうすぐ71歳を迎える私は、日本の洋食の王道を、父から受け継いだすべてを、横に立つ息子に伝えながら、父のように最後の最期まで、このオープンキッチンに立ち続けたいと願っています。
レストラン吾妻
東京都墨田区吾妻橋2-7-803-3622-7857
● 11:30~13:30LO、
17:30~20:30LO、
日・祝17:30~20:30LO
● 水、木休
● ビーフシチュー4000円(税別)
● 15席
長瀬広子=取材、文 依田佳子=撮影
text by Hiroko Nagase photos by Yoshiko Yoda
本記事は雑誌料理王国第242号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は第242号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。