【コロナウイルス感染症特別対談】エディション・コウジ シモムラ 下村浩司シェフ × アル・ケッチァーノ 奥田政行シェフ(後編)


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「自分のべースと、これからの料理人に大切なこと」

「エディション・コウジ シモムラ」の下村浩司シェフと、「アル・ケッチァーノ」の奥田政行シェフによる対談の後編。コロナ禍を通して「料理人の存在意義、社会的意義が一層問われる状況になった」と話す2人が、彼ら自身の修業時代について、そしてこれからの時代に求めらる料理人のあり方について話す。

がむしゃらに自分を確立した修業時代

下村 奥田さんは、どのような修業時代を送ってきたのですか。

奥田 僕はちょっと特殊でして、修業の切実感が他の人とは違ったと思います。

なぜ切実感が強かったかというと、僕が 21歳の頃、両親が営んでいたドライブインが大きな借金を抱えて倒産し、奥田家を早く建て直さなくてはならなかったから。高校卒業後に一度東京に出てイタリアンと製菓の修業を2年ずつしていたのですが、家業の倒産で実家に戻り、奥田家の建て直しは今の自分の力では難しいと考え、再度東京に出たんです。30 歳に独立する!そのためには25歳で料理長になる! 地元に帰ってホテルの料理⻑になるにはイタリアンと製菓以外に残りの3年でフレンチを勉強しなければ25歳で料理長になれない、と逆算したのです。まさに崖っぷちでしたので、必死で勉強しました。その時に自分なりに作ったノートが、今スタッフに渡しているチャートの元になっています。

下村シェフの場合は、どのような修業時代だったのですか?

下村 僕は、家業がレストランというわけではなかったので、自力で店を作りたい、そのためには自力で自分の料理を確立しなくてはいけない、そんな思いが強かったです。当初、将来的には故郷の茨城にイタリアンの店をオープンするのが現実的と考えていたので、専門学校の卒業後はイタリアンの店に就職しました。

奥田 そうだったんですか!

下村 修業の入り口はイタリアンでしたが、東京での数々の店での食べ歩きの末、フランス料理の世界に魅了されて、こちらの道に進むことに。それからは、さきほど話したように「自分の料理を確立する」「高みをめざす」という意識で修業に打ち込みました。時代が時代でしたので、スパルタ教育。厳しい毎日ながらも、必ずこの東京の地でオーナーシェフになる事を夢みて日々の仕事に励んでいましたね。

いくつもの店での修業を経験しましたが、その時は「この店では必ずやこれを習得する」と、明確な目標を課して自身の成⻑を促していたのを覚えています。8年間のフランス修業でも同様。その期間は自分を形成する上でとくに実になる経験をさせてもらえたと思います。

奥田 こうしてみると、僕と下村シェフは対照的な修業時代ですね。

下村 そうですね、僕は40歳前にはオーナーシェフに就くという目標から逆算して修業していましたが、奥田シェフのように切羽詰まった時間の中で、料理を追求したという感じてはありませんね。

自分の表現を追求することと、社会の要求に自分が応えること

下村 奥田さんの料理の特徴は、鶴岡の素材を存分に生かしていることだと思います。やはり力強い素材がすぐ近くにあるというのは、うらやましいですね。

奥田 鶴岡の素材の力に気づいたのは、東京に出てからです。30 年前に流通していた野菜には力がなかった。その一方で鶴岡の素材は力強く、しかし他の土地では全然知られていない。もったいないな、ならば地元の生産者の応援隊になって広めよう、と決めました。となると、自分の料理は「自分色」を出すより「素材」を表に出すのがあるべき姿。どんどんシンプルになっていきました。そうしたら、東京の雑誌社からも評価を得ることになったのです。

今考えれば、フレンチは「哲学」、イタリアンは「THE素材!」。だから、イタリアンと名乗っているから、素材重視になるのは当然なんですよね。

下村 その評価された味を本店だけで守ろうとは思いませんでしたか?

奥田 周りの人々が僕に求める役割というのが、「庄内の魅力を広く、日本、そして世界に伝え、豊かな土地にすること」。それに応えていたら今の形になったのです。もちろん自分の表現を追求したい思いは常にあり、1人で小さな店をやりたいな、と思ったことも何度もあります。でも人を育てることは大事。特に、自然や生産者、地域との関わり方も学んでほしいと思っています。

ただし、自分の表現を徹底的に追求しながら人を育てている下村シェフのような料理人も、料理界には絶対に必要だと思っています。

下村 今の僕があるのは、先人たちがずっと引き継いできだフランス料理の技術や哲学を、修業や日々の研鑽を通して受け取ることができたから。だからこそ、これを後進に伝えることを非常に大事にしています。また、僕の師匠たちが見せてくれた「本気で料理を追求するとは、こういうことだ!」という、料理という表現に人生に懸ける熱さも伝えられたら……と思っています。

でもこれは、とても集中力が必要なこと。ゆえに、店は広げないでいます。とはいえ、経営的には攻めの姿勢も大事。自分の目の届く範囲で確実に一歩ずつ事業を重ねていきたい。いわば「広げる」のではなく「重ねる」。そういうイメージで強固な店作りを実行しているのです。

奥田 社会の要求に応える、自分の表現を極める、どちらのタイプの料理人も必要なのだと思います。

下村 そうですね、とくにコロナ禍を経て、レストランや料理人の「生きるべき姿」のあり方が厳しく問われるようになったと感じています。なので、自分が何をめざすのか、自覚的でなくてはなりません。そして、今が踏ん張りどころ。どんな逆境にあっても自分の信じる道を進むこと、スタッフたちを導くのがオーナーシェフの役割なのだと思っています。

これからの社会でも必要とされる、求められる存在であり続けるためには、変わり続けることが必要だと実感しています。

奥田 はい。自分が進化するか?それとも絶滅するか?が問われていると思います。

エディション・コウジ シモムラ 下村浩司氏

茨城県生まれ。フランスで、ミシュランガイド3つ星「ラ・コート・ドール」をはじめとする名門レストランで8年間研鑽を積み帰国。2007 年、東京・六本木に「エディション・コウジ シモムラ」をオープン。翌年にミシュランガイド2つ星を獲得。近年では、JALファーストクラス機内食や JR 九州クルーズトレイン「ななつ星 in 九州」デザートの監修を担当。茨城県大使、大分県国東市の観光大使などを務める。

アル・ケッチァーノ 奥田政行 氏

山形県鶴岡市生まれ。高校卒業後イタリア料理、フランス料理店などで修業を積む。2つの店で料理⻑を歴任後、2000年、「アル・ケッチァーノ」をオープン。2004 年、山形県庄内支庁より庄内の食材を全国に広める「食の都庄内」親善大使に任命される。なお、その活動から鶴岡市は 2014 年、ユネスコ創造都市ネットワークへの加盟が発表された。第1回辻静雄食文化賞受賞、第1回料理マスターズ、2014年スイスダボス会議ジャパンナイト総料理監修、2020年文化庁長官表彰。

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取材・文=柴田泉


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