2024年1月1日午後4時過ぎに発生した能登半島地震。自身も被災者でありながら、震災直後から炊き出しで地域の命を繋いだ2人の料理人がいる。輪島市『ラトリエ・ドゥ・ノト』の池端隼也さんと七尾市『ヴィラ・デラ・パーチェ』の平田明珠さんだ。
去る2026年6月11日、京都の『レストラン モトイ』にて、全日本・食学会京都支部主催の勉強会「震災の炊き出しのリアル〜能登半島地震 現場料理人の声を聴く〜」が開かれ、2人が登壇した。発起人であり進行役を務めた前田元さんは言う。「日本全国、いつ誰が当事者になるかわからない。能登の知見から学びましょう」。語られた現場のリアルとディスカッションで浮かび上がった「有事の際に料理人ができること」をお届けする。
料理人を中心に28名が集まった会場に、スクリーンが映し出された。地震からわずか4時間後、燃えさかる輪島の街の映像だ。津波警報のなか「目の前の人を助けるか、自分の命を守るか。他人と自分の命を天秤にかける瞬間がありました」。池端さんの証言は冒頭から壮絶だった。店は開業10年目、オーベルジュへ展開する構想を練り始めた矢先の災害だったという。
家族の無事を確認し安全を確保した上で、1月3日には最初の炊き出しを始めた。最初に決めたのは「食事を持って行って、足りないということだけは絶対にないようにする」ということ。混乱を極めた行政の情報は入ってこない。そのため、複数の避難所を自らの足で回り、各所に何人いるかを数えた。
水道は止まっている。ペリエやコーラなど店に残っていた水分で野菜を煮て、アレルギー食材の使用は避けた。元旦から休業していたスーパーは閉まっていたため、小さな商店や近隣の農家、漁協を回り、ありったけの食材を確保。「偶然にもお年玉用に現金を持っていたので、買うことができました」と池端さん。被災した生産者や商店を支えた。
最初は近隣の飲食店仲間3人で800食を作り、翌日にはさらに仲間を集めて1500食規模へ。最終的には1日2000食を作り、軽トラック2台で複数の避難所へ朝と晩の2回、配送する体制を敷いた。そんな炊き出しは、なんと6月まで続いた。半島という地理的条件と道路の寸断、震災前からの過疎・高齢化が重なり、支援はそれほどの長きにわたって必要とされ続けたのだ。
そうしたなか、意外な協力者もいたという。炊き出し支援の申し出として最初にコンタクトしてきたのは、スペイン出身の料理人、ホセ・アンドレス氏が2010年のハイチ地震を機に設立した米国のNGO「ワールド・セントラル・キッチン(WCK)」だ。世界各地の災害現場に即応する食の支援組織で、地震発生直後にワシントンD.C.から飛び、悪路を毎日往復して水や必要な物資を運び続けてくれた。
「彼らがすごいのは全部やってあげるのではなく、バックアップにまわって地元の僕らを前に立たせること。自分たちの手で動くことが、被災者自身を元気にすると知っているのです」

一方の平田さんは2024年の元日、帰省先の東京にいた。翌2日の早朝に車で単身、能登へ戻り、まず行ったのはSNSでの発信だ。「電波も水も貴重な状況。安否確認の連絡や、被害の様子を見に来ることは控えてほしい」と呼びかけた。その日の夕方には店にあった食材でカレーを作り、地域のグループLINEで「鍋を持ってきてくれたらカレーを入れます。代わりにお米をください」と助け合った。
避難所となった小学校では、家庭科室を利用して地域の女性たちがおにぎりを握っていたが、衛生面に不安があった。そこで飲食経験のある5人ほどと自店スタッフで炊き出しチームを編成し、調理場には他の人を入れない体制に。アレルギー表示を掲示し、配膳の行列で起きるトラブルの矢面には、地元のお年寄りの扱いに慣れた地元のお母さんたちに立ってもらった。
高齢者の多い避難所では、苦い経験もしたという。外部から来てくれた炊き出しが油と塩分の強いもので、翌日に血圧が上がって搬送される高齢者が出たのだ。「支援に来てくれる方は自慢のご馳走を提供したがる。でも避難所が求める味でないことがあります。炊き出しに来てくれる人と避難所のニーズのマッチングが、一番大変でした」
例えば善意で炊き出しに来る団体や自衛隊のダブルブッキングを無くす調整など、炊き出しに来る人と避難所のマッチングを行ったり、大量の支援物資の分配方法を避難所から行政に預ける体制を敷くなど、避難所の運営に奔走した。
池端さんと平田さんの証言は何度も交差した。行政の職員もまた被災者であり、公平性の原則ゆえに柔軟な判断ができない。だからこそ「民間の料理人の即応力に価値がある」という。そして印象的だったのは、こんな言葉だ。
「僕らも被災者ですが、炊き出しをしていて元気になったのです。何もしないのが一番しんどい。自分の店を片付ける時が現実を見るようで一番、辛かった」
食事に求められるものは刻々と変わる。最初は温かいスープがあるだけで涙が流れる。1週間も経てば「食べ疲れしない」家庭の味が恋しくなり、やがて食事は毎日の楽しみになる。その時々のフェーズを読み、料理を仕立てていく。それは料理人にしかできない仕事だ。

では、この経験をどう次に生かすのか。池端さんが提案するのは、平時から料理人が顔を合わせるコミュニティの常設だ。「消防団のような仕組みが料理人にあれば。LINEグループひとつあるだけでも違う」と話す。
事実、コミュニティが出来上がっていた輪島の街では、空き巣といった事件はあったものの性犯罪は起こらなかったという。「自分が炊き出しをする上でも、街の人が自分を知ってくれていたのは大きかった」と話す。
会場からは、街の避難訓練に炊き出しイベントを組み込む案や、調理師専門学校生の参加枠を作る提案も上がった。能登では現在、県と連携した料理特化型の「地域おこし協力隊」制度づくりも進む。
そしてもう一つ、2人が強調したのが能登の今だ。「営業を再開できている店も増えているし、能登には今こそ美味しいものがある。観光地としてまた来てもらえる状況なんだと、魅力を伝えていきたい」。客として訪れ、食べ、楽しむこと自体が、復興の力になると力を込める。
終了後、参加者からは次々と声が挙がった。ある料理人は「経験に勝るものはない。何かあった時に一歩目を踏み出す勇気になる。『家族が全員無事だったから動けた』という言葉が一番心に残りました。まず家族という小さなコミュニティを守り、その次に何ができるかを探し続けられるよう、フットワークを軽くしておきたい。助け合って地域が回復していく、日本人のいいメンタリティを感じました」と話した。
東京から日帰りで駆けつけた調理師専門学校の学生は「心に傷を負うような場面で、料理人に何ができるのかに興味がありました。日々の生活の中でも人を元気づけたいという自分の思いと繋がっている。大事な一歩目になった気がします」と噛みしめた。
主催した前田さんは輪島へ何度か足を運び、直接2人に話をきくなかで「このリアルは、絶対にもっと多くの人に知ってもらわなければいけない」と本会を企画したという。「料理人の力を僕自身もあらためて信じられたし、新たな可能性が見えました。日本全国の料理人のネットワークを作っていきたい」と話す。
勉強会の締めくくりには、実際に避難所で提供された料理の試食が振る舞われた。野菜スープをベースにした豚汁、そしてポテトチップスを砕いて混ぜ込んで作ったおにぎり、大量に届いた支援物資の缶詰を活かすことから生まれたサバ缶カレー。やさしい塩加減やしみじみとした滋味に、現場判断の積み重ねが表れていた。
「レストランの語源は回復させる場所。ある意味、僕らがやっていた炊き出しはレストランだったのかも、と今振り返って思います」と池端さん。平田さんもまた「料理人は地域のインフラとなり得るとわかりました。誇りを持てる仕事だと若い世代に伝えたい」と話す。これらの言葉に、今回の勉強会の意味が凝縮されていた。
全日本・食学会では料理人が単に料理を提供するだけではなく、社会に貢献できる重要な職業であることを広く発信。その魅力や可能性を次世代へ伝えていきたいと考えている。また今後も発生が予想される地震や豪雨などの災害時において、料理人が迅速かつ効果的に支援活動を行えるよう、過去の災害対応で得られた経験や知見を料理人同士で共有する場を設けることも重要な使命と捉える。その第一歩として京都で勉強会を開催し、将来的には全国各地へと展開することで、料理人同士のネットワーク強化と有事対応力の向上を目指している。






池端 隼也 いけはた としや
石川県輪島市生まれ。大阪のレストランのスーシェフを経て25歳で渡仏し計4年間修行。帰国後、輪島塗の塗師屋の工房であった古民家を改装し2016年に『L’Atelier de NOTO』をオープン。被災後は地元料理人や漁師、輪島塗の職人などで運営する食堂『mebuki-芽吹-』を開業。街の再建に努めている。

平田明珠 ひらた めいじゅ
1986年東京都生まれ。都内のイタリア料理店で修業時代、食材を探しに訪れた能登に惹かれ2016年に七尾市に移住し、レストラン『Villa della Pace』開業。2020年に海水浴場跡地へ移転し、宿泊施設を併設したオーベルジュとしてリニューアルオープン。現在はすでに営業を再開してい
text: 佐藤良子
