2013年7月に銀座5丁目にオープンし、4カ月余りでミシュラン二ツ星を獲得した「ドミニク・ブシェトーキョー」が、2年後の今年7月、銀座1丁目に移転した。ドミニク・ブシェさんはジョエル・ロブション氏の右腕として活躍し、「トゥール・ダルジャン」や「ホテル・ド・クリヨン」でミシュランの星を守り、2004年にはパリ8区に自店をオープン。伝統的な料理をベースにした、おいしくて居心地のよい店として評価も高い。
──前店も順調だったのに、なぜ移転なさったんですか?
より良い環境を求めて。
──なぜ東京に出店したのですか?
パリの店も少し落ち着いたので、新しい挑戦がしたいと思ったんです。東京は30年前から僕を受け入れてくれた街、いろいろなものを学び、吸収しました。今度はお返しをしたいというか。心の繋がりがある街だから、東京は、日本は第二の祖国だと思っています。東京でやるならグランメゾンをやりたかった。
──東京以外にもお店を?
いいえ。レストランでは、自分がそこにいることがすごく大事。自分の名前を冠する以上は、そこに自分がいて、その店に責任を持つことができないのであれば、やらない方がいいと思うんです。そういう意味で、僕にはパリと銀座、というのはすごくいい。半分半分いられるので。
──日本がお好きなんですね?
日本は伝統も文化も違うけれど、底辺にはものすごく共通点がある。食文化を大切にし、外来なのにフランス料理をとても大切に扱ってくれる。ただ食べるだけでなく、深く味わって良いものは良い、おいしいものはおいしいとわかってくれる。
──若い日本人シェフを選んだことに、後悔はないですか(笑)。
後悔どころか、自分の思っている世界をきちんと忠実に再現してほしいというリクエストに、きちんと応えてくれています。
──厚東創さんを選んだ決め手は?
顔を見た瞬間に「この子はいい」と思いました。話しながら手を見たり、靴を見たり、きちんとしているかを見て、ひとつ質問をしました。ソースを作る作業は好きか、と。地味で時間のかかる作業ですが、彼はまっすぐ目を見て、好きですと答えた。この人には任せられるなと思いました。
──3週間おきにパリと東京?
ええ、僕は細部にこだわる。こだわるほどにいい店ができると感じていて、それはビストロでもレストランでも、どこの街でも、店を1軒やるということにおいては同じだと思う。
──パリの店の顧客は、「良く食べている人たち」という感じですよね。
そうですね。料理にはうるさい人が多い。銀座のような内装はないけれども、そこにはおいしい料理があって、きめ細かいサービスがある。だから来てくださるのだろうと思います。シックで気軽なビストロにしたのに、細部にこだわったからか、星が付いてしまったんです。
──シンプルで、素朴がいい?
素朴だけれども上質なものを、シンプルな器に詰めるのが大好き。それは割に難しい、かえって難しい。
──足し算をしたほうが簡単です。
ずっと仕事をしてきたグランメゾンにあったフランス料理の格式ばったものを、消し去りたかった。賛否両論ありましたが、マネージャーもジャケットを着ていないし、半分キッチンを見せたり。気取らない面をあえて打ち出したら、追随してくる人が多かった。それは現代化していくひとつのステップだと思います。
──お料理も同じですね。
進化していかなければならない。もちろん伝統は大事だが、いつまでもしがみついてはいられない。
──伝統というものは、形の古さと同意ではない。けれど、伝統というものをちゃんと身に着けている人だからこそ、進化できると思いますが。
それには教育がすごく大事。自分が進化していけるのはまず両親のおかげだし、最初に仕事を学んだシェフからも進化していくことを学んだ。
──それはロブションさん?
13歳で初めて入ったレストランのムッシュ・プイー。16歳半までそこにいました。ボルドーの北東70キロの田舎町ジョンザックのシェフで、ソースが上手でした。猟にも魚釣りにも連れていってくれ(笑)、毎日朝食を用意してくれた。僕ら若いコミたちはひと言も口を聞かずに黙々と食べて、8時にはそれを片付け12時まで働く。仕込みをやって午後は15時から18時まで学校。
──ドミニク少年は、そうやって自分を作っていったんですね。
両親がすごく厳しかった。僕は8歳のときから料理人、料理人と言って。でも両親はすごく大変な仕事だからお前にできるわけがないと。ただ、あまりにもうるさいので、ムッシュ・プイーを見つけてくれたうえで、小さな部屋も見つけて、店に送りこんでくれた。
──幼い頃から料理人が夢だった。
でも仕事がきつくて3週間で逃げ出して、もう辞めたいと言った。そしたら父に首根っこを掴まれて車に乗せられ、ムッシュ・プイーのところへ戻され「もし次に逃げ出すようなことがあったら、二度と戻さなくて結構です。どうぞ捨ててください」と。それから二度と逃げなかった。
──お父さま、素晴らしい。それがなかったら今のブシェさんはない。
休みは月曜日だけ。20歳までそんな生活でしたから、フランス人の言う、バカンスとかはあまり縁がない。
──日本人みたい(笑)。
17歳の時に、ひとりで上京して、本当に貧しかったんですよ。
──20代の初めにロブションさんと出会われたんですよね。
ロブションさんはペニッシュという店をやっていて、彼のおかげでジャマンにも入れたんです。「君は性格が悪いから行ってこい」って(笑)。ジャマンには3年いました。
──3年目にジャマンさんが亡くなられ、トゥールダルジャンに。
世界中を旅したり、世界中からのお客様を迎えることができたり、多くを学びました。でも、29歳の時に三ツ星を背負うというのは、やはり大変重いものがありました。
──ドミニクさんがここまで来られたのはなぜ? 何が他の人と違っていたと思いますか?
逃げ出したとき、父は、自分がやりたいと言ったことは最後まで貫けと。その言葉は頭に深く刻まれて、これで進もうと覚悟したら、すごく好きになっていった。ヤケドはするし、包丁で手を切るし、ずっとジャガイモは剥かなきゃいけないし、楽しいことばかりではない。でも日々進歩していける。それがとても楽しかった。
──銀座の店のテーマは「エリタージュ=継承」とうかがいましたが、料理人として一番大事にされていることは何ですか?
料理の中で一番大事にしているのはソースです。今残念だなと思うのは、大きなきれいな皿に花が飾ってあって、食べるところはどこだろうという料理が流行っているけれど、味わい深さがない。口にしたとき、時間をかけて作られたしみじみとした味わいみたいなものが感じられないことです。
──若い人たちにメッセージを。
グランシェフを目指すとしても、本当に時間がかかる。だから辛抱と情熱はいつも必要。たくさん本を読み、情報を自分に取り込み、旅をしたり食べに行ったりして、いろいろな世界があることを知って欲しい。例えばどんな旅でも、必ずビジョンを広げてくれます。あと、年寄りの言うことにも耳を傾けろ、と(笑)。
──(笑)共感できる貴重なお話をありがとうございました。
Dominique Bouchet
1952年、大西洋に近いシャラント=マリティーム県生まれ。ジョエル・ロブション氏の右腕として活躍。「ジャマン」「トゥール・ダルジャン」、「ホテル・ド・クリヨン」のシェフを経て2004年、パリ8区に自分の店をオープン。2013年9月、海外初出店「レストラン ドミニク・ブシェ」を銀座にオープン。4カ月後にミシュラン二ツ星を獲得。2年後に現在地に移転した。
ドミニク・ブシェ トーキョー
Dominique Bouchet Tokyo
東京都中央区銀座1-5-6レンガ通り福神ビル2F
03-6264-4477
● 12:00~13:30LO、18:00~20:30LO
● 日休
● 30席(個室8席)ワインカーヴ特別席4席
www.dominique-bouchet.jp
レストラン ドミニク・ブシェ
RESTAURANT DOMINIQUE BOUCHET
11 rue Treilhard, 75008 PARIS
+33 (0)1 45 61 09 46
● 12:00~14:00、19:30~21:30
● 土日休
● 45席
www.dominique-bouchet.com
民輪めぐみ=インタビュー、構成 富貴塚悠太=撮影
本記事は雑誌料理王国2015年11月号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は2015年11月号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。