知っていると面白い、いつからコンビニで”肉まん”を置く様に?”麻婆豆腐”は、なぜ家庭料理に?日本と欧米の中華料理年表 PART2


その国の歴史や国民性を反映する料理。今や世界中で愛され、現地ならではのメニューまで誕生している中華料理の裏側には、どんなストーリーがあるのだろうか?その歴史を紐解いてみよう。

1960年~1979年

高級・庶民向けの双方で、中華料理がさらに広まっていく
1960年代、高度経済成長や消費ブームの影響を受けて、日本における中華料理も大きな変容を遂げる。1961年、NHK「きょうの料理」に出演した陳建民は、日本ではまだ口にする機会が少なかった四川料理の「麻婆豆腐」を紹介。食品メーカーの後押しもあり、麻婆豆腐や回鍋肉は一般家庭の食卓に登るメニューの一つとなった。また、1964年の東京オリンピックに向けて建設された近代的な大型ホテルには、本格的な中華料理レストランが入り、箸を使える手軽さもあって人気を博す。そして1972年、日本と中国の国交正常化を機に、中国本土ではないが、香港やマカオなどで本格的な中華料理を学ぶ料理人が増えはじめる。さらに国交正常化は輸入食材にも影響を与え、チンゲンサイやターツァイ、香菜といった中国の野菜や、本場の調味料も日本で手に入りやすくなった。消費ブームが落ち着く1970年代は、「洗練されたヘルシーな料理」が注目されはじめた時代でもある。そこで注目を浴びたのが、野菜や海産物を使用し、あっさりと仕上げた広東料理だ。大型ホテルの有名店などを皮切りに、次第に広東料理店は数を増し、その担い手も増えていく。こうして育った料理人たちは、地方のホテルに料理長として赴任し、本格的な味を広めることとになる。

当時の日本

1960年代~
「四川飯店」の陳建民が、NHK「きょうの料理」で全国的な人気を得る

1957年からNHKで放送がはじまった「きょうの料理」は、日本料理、フランス料理、中国料理の一流料理人が登場する番組だ。その中国料理代表として、「四川飯店」の陳建民が出演。愛嬌のある話し方や、手際の良さ、わかりやすい説明で、高い人気を得る。

王馬熙純(おうまきじゅん)が、中華風の家庭料理を幅広い層に伝える
戦前、ピアノを学ぶために来日したハルビン出身の王馬熙純。彼女もNHK「きょうの料理」の放送初期から活躍した料理研究家の一人である。中国の食材や調理法、その背景にある食文化などを紹介し、日本風の中華料理レシピを世に広めた。

都内で大型ホテルの建設ラッシュホテル内には本格中華レストランがオープン
1964年の東京オリンピックに向けて、「ホテルオークラ」や「ホテルニューオータニ」といった近代的なホテルが続々とオープン。ホテル内に出来た高級中華料理店は、接待や会食、慶事や法事で利用された。

1967年
崎陽軒が「シウマイ」の真空パック販売始める

1954年に名物「シウマイ弁当」を発売した、横浜・崎陽軒。1967年には、時間が経っても美味しいシウマイを味わえるように「真空パックシウマイ」を発売する。これによって遠方に住む人でもシウマイを楽しめるようになった。

「餃子の王将」が京都にオープンする
京都の四条大宮に餃子専門店「餃子の王将」が開業。京都を中心に人気を博す。やがて、1970年代後半には東京にも進出。全国的な中華料理チェーン店としての地位を確立し、2005年には本場中国への進出も果たした。

1969年
「大阪王将」が営業を開始リーズナブルなメニューで学生を中心に繁盛

「餃子の王将」から暖簾分けした「大阪王将」。「大阪発の餃子専門店」として、行列が絶えないほどの賑わい見せた。近年では、水も油も必要ない冷凍餃子など、革新的な商品も開発。冷凍食品分野でも高い売上を誇る。

1970年代
東京育ちの料理人が本格中華を地方に伝える

大阪万国博覧会や、札幌冬季オリンピック、山陽新幹線全面開通などに伴い、国際的ホテルや大型ホテルが全国の主要都市、中核都市で建設される。そのホテル内レストランとして、本格中華料理店が地方でオープン。東京のホテルや一流中華料理店で修業をした人材が、その担い手となった。

高級中華料理で「ヘルシー」さが意識される
1970年ごろから高級中華料理の世界で、「中華=こってり」というイメージから脱却しようという動きが出てきた。そこで、海鮮や野菜をあっさりと仕立てる広東料理が注目されはじめる。

1971年
丸美屋食品が「麻婆豆腐の素」を発売

当時、レストランでしか味わえなかった麻婆豆腐を、家庭で気軽に楽しめるようにと開発・発売された「麻婆豆腐の素」。またたく間にヒット商品となり、家庭の食卓に麻婆豆腐がのぼるようになった。

日清食品が「カップヌードル」を発売
これまでなかったカップに入った麺にお湯をかけて食べるという発想と、当時はまだ珍しかった発泡スチロールの採用、お湯の出る自販機と組み合わせた画期的な販売法で爆発的な人気に。1973年には世界進出を果たす。

1975~1992年
TBS「料理天国」放送開始

1975年10月から毎週土曜日に放送された「料理天国」は、料理バラエティーの先駆け的な存在。世界の高級料理を紹介するこの番組によって、高級中華料理への憧れを掻き立てられ、食の娯楽化が進んだ。

1970年代後半~
チンゲンサイなどの中国野菜が広まる

1972年の日中国交回復以降、日本にはチンゲンサイやターツアィ、香菜など様々な中国野菜が入ってきた。その中でも、日本人の好みに合う味と食感のチンゲンサイは、とくに広まった。

コンビニで肉まんが販売されはじめる
1970年代になって日本でも普及しはじめたコンビニエンスストア。1970年代後半には、山崎パン直営のコンビニエンスストア「サンエブリー」などで肉まんが販売されはじめた。

当時の欧米

1960年~
ロンドンで飲茶料理が普及

イギリスの植民地であった香港からの移民が増え、飲茶店が増える。以前に広東人がもたらした「焼蝋(しょうろう)」などの肉料理も根強い人気を誇った。

1965年~
「改正移民法」により、台湾からの移民が増える

アメリカでは、これまでの白人優位な移民政策から一転し、アジア系移民の受け入れ枠を確保。1965年以降になると多くの台湾人が渡米する。この流れはアメリカが中華人民共和国を合法政府とする1979年まで続く。

1965年~
オランダに東南アジア系の中国人が増える

インドネシアで発生した軍事クーデター「9.30事件」により、インドシナ華人が元宗主国であったオランダに渡り、チャイナタウンができる。ここで は、「ナシゴレ」「ミーゴレン」「サテー」といった中華料理の影響を受けたインドネシア料理も一緒に提供されていた。

1970年~
モントレーパークをはじめとする、新しいチャイナタウンが形成される

アメリカに移住した裕福で高学歴な台湾系移民たちは、これまでの広東人中心のチャイナタウンを避け、新しい中華街を作りはじめる。その代表格とも言えるモントレーパークは、居住する中国人の多さから 「リトルタイペイ」、「チャイニーズビバリーヒルズ 」と呼ばれた。

1978年~
「改革開放政策」により「新華僑」が海外に渡る

中国政府の改革開放政策により、海外への渡航や留学の規制が緩和。それにともない、海外に渡る中国人の数が一気に増える。改革開放後、海外に渡った中国人は「新華僑」と呼ばれた。

日本における中華料理の定番とも言える、四川料理「麻婆豆腐」。当時の日本と中国の間に国交はなく、陳建民は工夫を重ねて日本にある食材を使って、日本人の舌にあった「麻婆豆腐」を生み出すことに成功した。
ロンドンのチャイナタウンで根強い人気を
誇る、広東料理「焼蝋(しょうろう)」。専用の窯でタレに付けた豚肉や鶏肉をじっくり焼き上げていく料理で、パリパリした食感とジューシーな味わいが特徴だ。ご飯と一緒に食べることが多い

「中華料理の父」陳建民によって、麻婆豆腐や回鍋肉といった四川料理が紹介される。また、経済発展と消費ブームを背景に、中華料理店も増えて、技術を学ぶ場も充実していく。1970年代には、ヘルシーであっさりした広東料理が注目され始める。

海外における1960~70年代は、中国から移民が大幅に増えた時期だと言える。1965年には、アメリカの移民法改正で、白人有利だった移民政策が平等なものに変わり、台湾などから中国共産党による独裁政権を恐れた富裕層が多数移住した。資本力のある彼らは、これまでのチャイナタウンの近くに、中流階級向けの新しい街を作る。また、同年インドネシアで起きた軍事クーデターにより、元宗主国のオランダに渡る移民も多かった。1978年には、中国の鄧小平による改革開放政策によって、中国人の海外渡航における制限が減り、「新移民」や「新華僑」と呼ばれる、比較的教育水準の高い人々が、新天地を求め海を渡った。彼らも、従来のチャイナタウンには住まず、その郊外に新しいチャイナタウンを作った。

text 立岡美佐子(エフェクト) 協力 柴田泉、山下清海(立正大学地球環境科学部地理学科教授)

本記事は雑誌料理王国2019年12月号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は2019年12月号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。


SNSでフォローする