終戦から5年、日本のフレンチを牽引した名店「エスコフィエ」


戦後の東京にフランス料理のレストラン登場

終戦から5年。1950年にイギリスのバレエ映画「赤い靴」が東京・有楽町の有楽座で封切りされると、銀座通りの靴屋に赤い靴が並び、バレエ塾が乱立。翌年には日本初のファッションショーが開催されるなど、飢餓への不安から脱した人々の関心は、次第にファッションや娯楽に向いていく。

1958年には、フランス映画「死刑台のエレベーター」が封切られ、本国で巻き起こったヌーベルヴァーグの波が上陸。人々の目がフランスに向き始めていた。

戦後、街場ではワイルの弟子たちが勇躍


 戦後、1949(昭和)年に飲食店が営業を再開できるようになると、街場に新しいレストランが、続々と登場する。そのなかでも、めざましい活躍を見せたのが、横浜のホテルニューグランド出身の料理人たちだった。

 霞が関「キャッスル」の荒田勇作、のちに日活国際ホテルの調理長となる馬場久、銀座「みかわや」の渡仲豊一郎等々……。総料理長サリーワイルのもとで進歩的な教育を受けた料理人たちは、アラカルトで鍛えた幅広い単品料理のレパートリーを持っていたばかりでなく、経済感覚にも長けていたため、街場のレストランにはぴったりの人材だったのである。

 1950年、東京・銀座に誕生した「エスコフィエ」のオーナーシェフ、平田醇も、サリー・ワイルの弟子の一人だ。学究肌だった平田は、独学でフランス語を勉強。18歳で横浜ホテルニューグランドに入社すると、すぐにワイルの通訳兼コックとして働くようになったという。

「父は、サリー・ワイルさんのニューグランド時代の愛称『エスワイル』を店名にしたかったそうです。でも、すでにフランス菓子専門店が『エスワイル』を店名にしていたため、エスコフィエにしたと言っていました」と、現オーナーの平田之孝さんは話す。

 ワイルから受け継いだエスコフィエの調理法を忠実に守った料理、アールヌーヴォー調のインテリア、ホスピタリティあふれるサービス……。古き良き時代の記憶を今に留めるこのレストランを、こよなく愛するゲストは少なくない。
「ある日、エスコフィエのお孫さんが訪ねてきてくださって、『この味とこの雰囲気なら満足』と言ってくださいました。嬉しかったです」(平田さん)

骨付き仔羊背肉のロティ エストラゴンソース
鮮魚のア・ラ・ヴァプール 海老を添えて
いずれも平田醇のレシピを踏襲した料理。「『エスコフィエ』の名を店名に冠している以上、クラシックを守り続けていきたい。そして、良質なワインをお楽しみいただきたいですね」と平田さんは話す。

 一方、「エスコフィエ」開店の7年後に、東京・芝公園で産声を上げたのが「レストランクレッセント」である。古美術商「三日月」を営んでいた石黒孝次郎が、「客をもてなすための料理を出したい」と考えたのがきっかけという。1947年に「三日月」の店舗として建てられた木造スレート葺きの平屋の館に、増築と改造を加え、1957年にフランス料理のレストランとしてオープンした。

 一軒家レストランの扉を開けると、さながら知人の家に招かれたゲストの気分。創業から変わらないもてなしの心が、ゲストを優しく包みこむ。
「どのようなご要望でも、『ノー』とは言いません。ご希望に添えない場合でも、代替案をご提案するようにしています」と支配人でシェフソムリエの畑山正治さんは言う。伝統にあぐらをかくことなく、努力を惜しまない。料理はもちろん、このもてなしの心も、二ツ星を獲得する理由の一つだろう。

 1950年には東京・銀座に志度藤雄がオーナーシェフとなった「メイゾン・シド」、翌年には三重県の志摩観光ホテル「ラ・メール」、1954年には東京・小金井に「TERAKOYA」が開店。日本全国に、フランス料理のレストランが少しずつ増えていく。
 朝鮮戦争の特需で、急速に日本経済が盛り返していくなかで、人々の暮らしもようやく普通の水準を取り戻し始めた1950年代。日本のフランス料理が大輪の花を咲かせるときが、間近に迫っていた。


山内章子=取材、文 星野泰孝、富貴塚悠太=撮影

本記事は雑誌料理王国第228号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は第228号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。


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