【連載】お手伝いハルコの『レシピの考古学』⑥ 板前割烹の発明


9歳から包丁奉公

2021年7月京都洛中新町通り六角に「浜作新本店」が開店しました。
「ぎをん浜作(旧店)」を閉めてから2年有余を経ての新本店でした。
現在ではカウンターに座って、目の前で料理人が包丁をふるって料理を提供するのは当たり前のことのようですが、昔は料理を作る場所と食べる場所は区別されて違うものでした。
それを始めて客さんの前で料理を始めた日本の板前割烹の元祖「浜作」百年物語です。

昭和2年創業の頃、初代森川栄、女将森川フク。【写真提供】浜作


浜作初代森川栄は富山からわずか9歳の時に大阪で一、二を争う魚屋「魚福」に奉公にきました。魚福では徹底的に魚の目利きとさばき方を仕込まれて、12歳に料理名人として名高い楢本作次郎に弟子入りしたのです。その時に義兄弟の契りを結ぶこととなる塩見安三と出会ったのです。塩見はその後東京に進出し「銀座本店浜作」の創業者となった人物です。

作次郎親方の元二人は日本一と名高い「播半」や「つる家」の調理場を預かり、その当時の大学教授の月給の10倍近くの報酬を得るほどだったそうです。
やがて塩見安三が大阪の新町に「浜作」を開店しました。この店名「浜作」は二人の親方の楢本作次郎の住む「北浜」の「浜」に作次郎の「作」にあやかつてつけました。

やがて、1927年(昭和2年)9月1日に塩見の勧めもあって京都祇園富永町に「浜作」を開店したのです。塩見は翌年東京で「銀座本店浜作」を開業しました。
1926年12月26日に大正天皇が死去し、昭和へと改元され「ぎをん浜作」の開店した2月には大正天皇大葬が行われた年でした。1923年(大正12年)に関東大震災が発生した後で関西から多くの料理人達も帝都復興の東京へと進出したのです。

文化も多様で川端康成「伊豆の踊子」、芥川龍之介「或阿呆の一生」。谷崎潤一郎「卍」、林芙美子「放浪記」、江戸川乱歩「陰獣」など多くの名作小説がこの頃発表されて、復興に従い、流行歌は「東京行進曲」、道頓堀行進曲」、「祇園小唄」と人気を博し、チャップリンの「黄金狂時代」のこの頃の公開で戦前の文化的に繁栄を謳歌していました。

板前割烹事始め

左は初代森川栄、右から二番目は二代目森川武。【写真提供】浜作

大阪で塩見と森川の二人はそれぞれ、塩見の煮方、森川の包丁方と役割を担っていました。森川栄は包丁方であったために、ぎをん富永町に「浜作」を開店した際に卓越した包丁さばきを料理とともに楽しんでもらうために、板場を囲むようにカウンター席をしつらえて、板前割烹という形式を編み出したのです。
割烹とは、「割」、「分かつ」切る、割る、裂く、剥がす、削ぐ、毟(むし)るという意味で、「烹」は火を入れる「煮る」という意味で「烹」の字の正字のつくりは「煮炊きする器」が語源になります。この「板前割烹」という言葉を創案したのは森川栄で板前割烹の発明と言っても良いのではないでしょうか。
この二つの調和が割烹料理となるわけですが、歴史的に考察すると京で誕生した「茶懐石料理」浪速(大阪)の「会席料理」、江戸の「本膳料理」の流れから料亭の座敷から明治にかけて卓上(テーブル)での「腰掛料理」「掛合料理」をさらに進化させて完成させたものが「板前割烹」と推測します。

客の目の前で包丁を鮮やかに使うという調理は、当然技術的にも高いレベルでなくてはないのは当然です。現浜作三代目主人森川裕之は「祖父栄は、大阪の魚福からぎをん富永町の浜作まで、鯛を何万匹もさばいて祖父にはかないませんが、私も板前割烹発祥の三代目としてはこれからも百年目の板前割烹店を目指してさらに精進いたします」とは、現代の名工に選ばれた森川裕之の謙遜だと思います。

初代森川栄のぎをん富永町浜作には京阪神の食通が新しい板前割烹というスタイルに魅了されたのです。それまでの座敷でいただくおまかせ料理が、カウンターで作りたてを楽しめるのは斬新で新しい時代の料理の規範となっていくのです。
ぎをん富永町浜作以後に京都には「たん熊」、「南一」、「河繁」と東京には塩見の「浜作」や「出井」が相次いで開店していきました。

百年目の板前割烹

フランス料理などでも板前割烹の影響を受けて、厨房とは別に客の前で料理を仕上げるカウンター形式の料理やシェフズテーブルと呼ばれる、ある意味で料理人が目の前で料理を作って供してもらうのは贅沢な味合いです。
同じカウンターで直接料理人が包丁をふるい料理を提供するスタイルに寿司店があります。
この寿司店のエル字型のカウンター方式が広がっていったのは戦後昭和30年代くらいからで、これは板前割烹のスタイルを真似て出来たもので、前からあるような気がしますが違いますね。

時代と共に板前割烹も進化を遂げて、二代目浜作主人森川武は日本で最初のホテルでの和食堂を始めたのです。それまで、ホテルと言えば洋食しかなかったのですが、京都東山の「都ホテル」に「和食堂浜作」を1961年(昭和36年)に開店しました。和食がホテルで食べられるというのは現在当たり前のようですが、画期的なことだったのです。

三代目森川裕之(浜作新本店にて)【写真】筆者撮影


森川裕之は二代目森川武が1991年に急逝して若くして三代目となりましたが、バブルが弾けた後で非常に困難な時代を経験しました。直接の従業員だけで200人、関連を合わせると2000人規模の企業となっていたのを大整理して、祖父栄の時代のように客と対峙する板前割烹の原点に戻り料理を深化させて行きました。
そればかりではなく森川裕之はカウンターを利用して料理教室をはじめましたが、これも常識外れのことでした。しかし、30年に渡り二千数百回の料理教室は日本で一番予約困難な人気の料理教室となり、良質な食文化の伝播の地となりました。三代に渡り常識を覆す元祖板前割烹浜作は食ばかりでなく、芸術や文化の発信地としてこれか百年を迎えます。


後藤晴彦(お手伝いハルコ)
アートディレクター、出版プロデューサー、おいしく工学主催(食文化研究家)
岩手県産業創造アドバイザー、にんにく研究所主席研究員、京都「浜作」顧問、
貝印家庭用品アドバイザー
「家庭画報」で料理ページのデザインを担当し料理に関心をもつ。
フランス、イタリア、スペインなどテーマを決めて食べ歩きを10年ほど続けるが日本料理も探求すべく京都に通う。
その間に脳梗塞になったが、奇跡的に回復し料理と健康医学のテーマに取り込むことになる。また、調理器具開発も手掛け、野崎洋光氏や脇屋友詞氏などの商品プロダクトをする。著書「包丁の使い方とカッテング」「街場の料理の鉄人」「お手伝いハルコの懐かしごはん」など。
「お手伝いハルコ」のキャラクターで雑誌の連載やコラムの執筆活動をしている。


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