こんな言い回しをご存じでしょうか?
「一合雑炊、二合粥、三合飯、四合寿司、五合餅」これは人が一度に食べられる米の量を指しているのですが、さらに「六合粟餅」と続く言い回しもあります。ダイエットや糖質制限に腐心している現代人にとっては無縁の言葉ですね。
かく言うハルコはお米が大好きで、特に寿司なら相当食べる自信があるのです。若い時分にある寿司屋さんで「何から握ますか?」と聞かれて「このカウンターのネタを端から順番にお願いします」と、結構長いガラスのネタケースでしたが、親方が終わりましたと言うので、すかさず「もう1回リターンしてください」と。さて、その時にどのくらい食べたのでしょうか。
寿司の一人前は巻物も入れて10個でお米換算一合として、「四合鮨」なら40個以上は食べられる計算になりますね。
さて、「寿司の一人前はなぜ10個なのか?」という問題が今回のお話。
仕事場の近くに一時期よく通っていた寿司屋さんがありました。ここの親方はその当時、全国すし商環境衛生同業組合連合会の技術副部長を務められて、すしに関しての本も書いており、その著作物を読んで親方に寿司の世界の話を取材しました。すし組合や業界の話も面白かったのですが、特に注目したのが、「寿司の一人前」はいつ誕生したのか?
大東亜戦争を通じて日本は戦中、戦後と食糧難で多くの食糧統制が行われていました。米の配給制度も1939年から施行されており日本中食糧難でした。
外食の飲食店には一応業務用の特別配給米があったのですが、充分な量ではなく、闇米を買うしかなかったのです。しかし、闇米の入手も困難となりさらに魚介類も統制品となり、多くのすし店が開店休業となってしまいました。
この辺のことは親方から教えてもらった中山幹(もとき)の『すしの美味しい話』(中公文庫)に詳しく書かれておりご興味のある方はご一読を。話はそれますが、中山氏は旭屋出版で『すしの雑誌』を主宰したすしに関しての碩学で、彼の影響でさらに篠田統(おさむ)『すし本』(柴田書店)と日本橋・吉野寿司本店三代目吉野曻雄(ますお)『鮓・鮨・すし/すしの事典』(旭屋出版)を入手しましたが、これらの本は「すし学」を極めるための欠かせない一級資料です。
そして、戦後まもなく東京のすし組合の方々の尽力で警視庁(食料配給の認可は警視庁)から「委託販売方式」という申請が認められたのです。これは客自身が配給米をすし店に持参すると、その米を加工したすしと交換ができる制度で、すし店は加工賃として料金を受け取れることが可能となり営業を再開できたのでした。
ところが、同じ飲食業でもなぜ、すし店だけが優遇されるのかと、鰻屋と天婦羅屋からクレームがきたのだそうですが、その当時の警視庁の管轄担当課長が「鰻や天婦羅は米がなくても成立するが、すしは米(シャリ)がないと成り立たない」として却下したのだそうです。
最初はすし組合会員でも、そんな形で商売ができるのかと半信半疑でしたが、客が押し寄せて商売が繁盛したのをみて委託加工制度は好評でどんどん参加する組合会員が増えたのです。
このことはその後の日本のすし文化が大きく変革される契機といっても過言ではないのです。
全国にあるすし店が東京の委託加工販売方式に倣って、申請を始めたのですが、押しすしや箱すしなどには適応されず、あくまで握りすしに限定されたのです。それなら、と全国のすし店は「江戸前の握り」に転向して、あっという間に日本全国に江戸前すしが普及したのでした。
この時の米一合=すし一人前(巻物もふくめて10個)でさらにそれ以前のすしは一口半サイズで大き目でしたが、これを契機に現在のように小ぶりになり「すしのスタンダード」となり、やがて「世界のSUSHI」の誕生となったのでした。
もし70数年前にこの委託加工販売制度がなければ、本当に今のすしの世界は変わっていたのかもしれませんね。
※参考文献『江戸前のすし』山崎博明・全国すし商環境衛生同業組合連合会(雄鶏社)
後藤晴彦(お手伝いハルコ)
アートディレクター、出版プロデューサー、おいしく工学主催(食文化研究家)
岩手県産業創造アドバイザー、にんにく研究所主席研究員、京都「浜作」顧問、
貝印家庭用品アドバイザー
「家庭画報」で料理ページのデザインを担当し料理に関心をもつ。
フランス、イタリア、スペインなどテーマを決めて食べ歩きを10年ほど続けるが日本料理も探求すべく京都に通う。
その間に脳梗塞になったが、奇跡的に回復し料理と健康医学のテーマに取り込むことになる。また、調理器具開発も手掛け、野崎洋光氏や脇屋友詞氏などの商品プロダクトをする。著書「包丁の使い方とカッテング」「街場の料理の鉄人」「お手伝いハルコの懐かしごはん」など。
「お手伝いハルコ」のキャラクターで雑誌の連載やコラムの執筆活動をしている。