コロナ禍が世界中に広がる寸前2019年12月にパリに滞在していました。
本来はパリからリヨンに行きパリに戻ってくる予定を立てたのですが、運悪くフランス全土で「グレープ(交通スト)」のためTGVも動いておらずリヨンへ行く予定を変更しパリだけで滞在することにしました。
エッフェル塔近くのアパルトマン滞在していたのですが、隣にあるレストランで帰国前の最後の昼食を。このレストランの名前は「Le Violon d’Ingres Paris」でミシュランの星付きでオーナのクリスチャン・コンスタントは6軒の店舗を所有しています、実は1992年にこの同じ場所に有った別のレストランへ来たことがあったのです。
この年はパリで年末を過ごして新年にアルザスの醸造家ジャン・メイヤーさんのワイナリーを尋ねて幾つかのレストランを巡り最期はドイツの国境近くにある「Auberge de l’ll」に行く予定を組んでいました。
ストラスブールの地元のビストロで分厚い「Tête de Veau(テット・ド・ヴォー牛の頭の脂肪肉)」をオーダーしました。この料理は人気メニューで、最初の1枚の熱々で美味しかったのですが、時間が経つと単なる脂肪の塊になり食べることが叶わず閉口しましたが、このひと皿が以下の三題話へのプロローグだったのです。
パリに戻り日本から来ていた友人のシェフと合流して昼にアンヴァリット近くのレストランに向かいました。
このレストランは前出の「Le Violon d’Ingres Paris」と同じ場所の以前あった「「Regin(レガン)」いう名前ですが、現在ではほとんどこの店のことは忘れ去られているでしょう。
昼時なのに客は老人二人とハルコ達のテーブルのみで、ちょっと寂しい感じ。
オードブルは“温かなジャガイモとタラのエストラゴン和え”で、アントレはアルザスでえらい目にあった牛の頭の肉をまたまた見つけ、懲りずにオーダーしました。
アルザスとパリの違いを知りたかったのでした。“Tête de Veau”は「シャン・ド・マルス」と名づけられておりレストランオ近くにあるエッフル塔近くの公園のことでした。野菜の茎や根の部分を合わせて牛頭のクセのある味も最期まで熱々で完食しました。
フランスから帰ってきた最初の日曜日に、横浜中華街でランチを食べて選んだ料理の一つが“冬瓜と蛙の炒め物”でした。
一口、口に入れた瞬間あっ、と思ったのです。「この食感、味…。うむ、最近どこかで食べたような気がする」
はた、と思い出したのは、1週間前にパリの「レガン」で食べた“Tête de Veau”でした。確かにどちらもゼラチン質が多く、似たような感じではあります。
が、どうも腑に落ちない。なんだろう、この不思議な胸騒ぎは……。
判らない思いを抱きつつ、すっかり記憶の中で忘れておりました。
話は随分飛びます。
『食の味、人生の味 辻嘉一 小野正吉』(柴田書店)という対談集を読んでいたのです。初版は1982年でハルコの持っているのは1984年(五版)ですが、ご両人とも故人になりましたが、辻嘉一さん(1988年没)は京都の懐石料理店「辻留」のご主人。小野正吉さん(1997年没)は、ホテルオークラの名総料理長。
そ、そして……見つけたのです!! ジャン・ドラヴェーヌさんの話を。
ジャン・ドラヴェーヌさんは第一話で登場する「Regin(レガン)」のオーナーシェフその人なのです。
小野正吉さんがジャン・ドラヴェーヌさんをオークラに招いた時の話です。
NHKの「今月の顔」という番組にジャン・ドラヴェーヌさんが“味の大使”というキャッチフレーズで出演していたのが、1984年9月のことで、ドラヴェーヌさんが来日していたのは1982年以前ということですね。
さて、その対談に小野正吉さんが「ドラヴェーヌさんが、オークラに来たときにね、中国料理の「桃花林」で、二日でも三日でも働かせてくれって、白い服持って来て調理場に入ったんですよ。彼らは香港・中国にも行っているようですしね」この部分を読んで、アルザス,パリ,横浜で体験した、何だか判らなかった輪が完結したのです。
ジャン・ドラヴェーヌさんは マロル・アン・ユルポ(アエソンヌ県)生まれで、当初は菓子職人を目指していたのですが、料理人に転向してイギリスのホテルでの仕事を多く経験した後、1957年、パリの郊外ブージバルに『カメリアCamélia』という店を構えました。
レストラン『カメリア』は、ミシュランの評価として1963年1ツ星、’72年に2ツ星を獲得し、一時期引退したのですが、「レガン」をパリに開店させたのです。しかし、この店の営業はわずか半年!
丁度、偶然にこの幻のレストランでジャン・ドラヴェーヌに遭遇したのです。第1話で店に老人が二人テーブルを囲んでいたと書きましたがその一人がジャン・ドラヴェーヌさんで一緒に記念撮影をお願いして、さらに当日のカルト(メニュー)にサインまでしていただいたのです(写真)。
ドラヴェーヌさんはお会いした4年後(1996年)、77歳でお亡くなりになりました。
「簡素化した料理」を提唱し、「キノコ博士」として異名をとるほどキノコ類には詳しかったと言われています。日本にいち早く“ヌーヴェル・キュイジーヌ”を持ち込んだ料理人でもあります。
ドラヴェーヌはジョエル・ロビションを導いた、魂の父とも呼ばれていました。
アルザスの“牛の頭肉”から始まり、ドラヴェーヌさんの“仔牛の頭肉”に行き、そして、横浜で食べた“冬瓜と蛙”がフランス料理から中国料理へとヌーヴェル・キュイジーヌで融合した貴重な体験のお話でした。
後藤晴彦(お手伝いハルコ)
アートディレクター、出版プロデューサー、おいしく工学主催(食文化研究家)
岩手県産業創造アドバイザー、にんにく研究所主席研究員、京都「浜作」顧問、
貝印家庭用品アドバイザー
「家庭画報」で料理ページのデザインを担当し料理に関心をもつ。
フランス、イタリア、スペインなどテーマを決めて食べ歩きを10年ほど続けるが日本料理も探求すべく京都に通う。
その間に脳梗塞になったが、奇跡的に回復し料理と健康医学のテーマに取り込むことになる。また、調理器具開発も手掛け、野崎洋光氏や脇屋友詞氏などの商品プロダクトをする。著書「包丁の使い方とカッテング」「街場の料理の鉄人」「お手伝いハルコの懐かしごはん」など。
「お手伝いハルコ」のキャラクターで雑誌の連載やコラムの執筆活動をしている。