長年にわたり、日本における中国料理をリードしてきた名匠が語る信念は、シンプルでありながら深く、心にじわりと響く。そう、磨き抜かれたテクニックとセンスによって紡ぎだされる、数々の料理と同じように。
「広東名菜赤坂璃宮」のオーナーシェフとして、「赤坂本店」「銀座店」の2店舗を率いる譚彦彬さん。素材の味を最大限に引き出し、限りなく本場の味に近い広東料理で、長年にわたってゲストたちの舌を楽しませている。齢70歳を過ぎ、料理人として歩んだ歳月はすでに半世紀を数えるが、修業の時代より変わらず抱き続けているのは「おいしいものを作りたい」という一途な想いだ。その探究心は尽きることがなく、いい店があると聞けば、多忙を極める中時間をやりくりして足を運ぶ。「おいしいものを食べるのが何より好きなんですよ。それに、おいしいものを食べなければ、おいしいものは作れないでしょう?」と屈託なく笑う。
そして「おいしいものを食べると仕事へのモチベーションが高まるのです。五感が刺激されてインスピレーションが働く。昔やっていたことを思い出して初心に戻るきっかけになったり、新しいアイデアがひらめくこともあります」と続けた。訪れるのは中国料理店に限らず、フレンチ、イタリアン、和食、何でもありだ。中でも、流行っている店は意識してチェックする。流行を追いたいのではない。世間的に支持されている味を知ることで自分の味を客観的に確認できる、というのがその理由である。ほかの店の味を知らないと逆にブレてしまうというわけだ。
「料理には終わりがないですからね。おいしいものを作ったと思っても、もっとおいしいものが次々に出てくる。だから楽しいのです」多くの味を知るという意味では、恵まれた生い立ちだったといえる。横浜中華街に生まれ、両親はラーメン屋を営んでいた。「普段仕事で調理場に立つせいか、母親は家ではあまり食事を作らない人で。子供の頃からいろいろな店に外食に連れていってもらいました。この頃の味覚が今の感覚の原点になっているのかもしれない」
成長した譚少年は、勉強があまり得意ではなかったそうで、さらにそのやんちゃな素行から、高校時代には学校側から転校を言い渡されたほど。見かねた父親から、「そんなに勉強が嫌いなら働け!」と言われ、中国料理人の道へ。修業の地に選んだのは東京・新橋にある「中国飯店」だった。青年時代は幼なじみで今は亡き中華の名手・周富徳さん、ANAインターコンチネンタルホテル「花梨」の元料理長・麥燦文さん、ホテルオークラの中国料理総料理長・梁樹能さんらとともに中国料理界のトップを目指して切磋琢磨した。その後の各々の活躍はご存知のとおり。つねに中国料理に囲まれ、また刺激を受けながら、譚さんの味の引き出しは蓄えられていったのだ。
さまざまな味の知識を自身の料理へと反映してきた譚さんに、「店を長く続けていくために、一番大切なことは何か?」と尋ねると、「食材を大切にすることではないでしょうか」と、間髪を入れずに答えが返ってきた。「料理は食材ありき。これまで、数えきれないほどの店を見てきましたが、食材への愛情を感じる料理を出している店は長く続いているように思います」と実感を込めて語る。食材の長所を無視してアレンジしたり、見栄えのよさだけにとらわれたりすると、一時注目を集めるだけで終わってしまう。「食材をバカにしてはダメ。食材へのリスペクトは、店のクオリティに直結するのです」。
そんな譚さんの原点となる料理のひとつが「紅ハタの姿蒸し」である。広東料理の定番中の定番であり、おもてなし料理としても、家庭料理としても広く親しまれている一品だ。二十数年前に香港を訪れた際にこの料理に出合った譚さんは、「ぜひこれを自分の店でも提供したい」と思ったそう。しかし、今でこそ和食や寿司をはじめさまざまな料理に展開されるようになり、高級魚として知られるハタだが、当時日本では食材としてほとんど認知されておらず、手に入れることは難しかった。仕方なく鯛を使って作ってみたりもしたが微妙に違う。「やはりハタでなければ」と、ゼロから仕入れルートの開拓に奔走。紆余曲折を経て、ホテルエドモント「廣州」の料理長時代、グランドメニューに日本初の「紅ハタの姿蒸し」を登場させることに成功した。おいしいものを貪欲に追求するという情熱が実を結んだ、長い料理人人生の中でも印象に残る出来事だった。
そして同料理は「赤坂璃宮」の看板料理になると同時に、中国料理界に一陣の風をもたらし、多くの店で味わえるおなじみの広東料理となっていった。とはいえ、“本家本元”として「ウチにしか出せない本場の味」には、揺るぎない自信を持っている。
「料理には終わりがない。
おいしいものを作ったと思っても、もっとおいしいものが次々出てくる」
「ラベットラダオチアイ」の落合務さん、「ヒロソフィー」の山田宏巳さんらとの交流を経て、トマトなど異ジャンルの食材もいいものは積極的に取り入れる。しかし、目指すのはあくまで正統な広東料理。正統な広東料理を出す店が減ってきているからこそ、自身は王道を極めていきたいと考える。「もちろん革新も必要ですが、それは若いシェフのフレッシュな感性に期待したい。こちらは年長者として、これまで積み重ねてきたノウハウを土台に伝統的なおいしさを追求することで、中国料理の発展に貢献できたらと思っています」
鶏肉、豚肉、金華ハムを6時間以上煮込んで作った特製シャンタンスープに、醤油と熊本から取り寄せているナンプラーをブレンド。この配合の割合が、譚さんの言う「ウチにしか出せない本場の味」の根本になっている。姿蒸しに適しているのは、800gぐらいのもので、蒸し時間は8分ちょうど。ネギを下に敷くのは、臭み消しと、皿と魚の間にすき間を作ることで下からも蒸気を通して旨味を逃がさないためである。蒸し料理のおいしさを決めるのは蒸し時間。食材の重量に合わせて秒単位で調節するが、計量器の類は一切使わず、手に持った感覚でベストな蒸し時間を瞬時にはじき出すのが譚さん流。スタッフに任せず、必ず自ら行う大切なプロセスだ。
「料理には終わりがない。おいしいものを作ったと思っても、もっとおいしいものが次々出てくる」
text 乾麻理子 photos 林輝彦
本記事は雑誌料理王国第226号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は第226号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。