国産の羊肉は希少である。国内に流通する羊肉のうち国産はわずか0.6%。一般の家庭ではほとんど食卓に上ることはなく、プロでも国産の羊を使うことができるのは、星がつくようなごく一部のトップシェフのみ。そうした極上の羊肉は、北海道から送り出される。国産羊肉の実に50%以上が北海道で生まれ育った羊なのだ。北海道で羊に生き、羊と暮らす、5人の羊飼いに会うため、「羊SUNRISE」の関澤波留人さんとともに北海道は道東へと飛んだ。
羊は温順な性質だが、一方で警戒心が強く、臆病な動物だ。
日常をともにする羊飼いが呼ぶ声にも、見知らぬカメラマンが構えた望遠レンズが視界に入れば、後ずさりする。しかも群れで行動するので、一頭が踵を返せば群れごと引き潮のように去っていく。生産牧場における羊の撮影はけっこう大変なのだ。
ところが、白糠の「羊まるごと研究所」の羊は違っていた。三ツ星店や北海道洞爺湖サミットのディナーにも登場した羊なのに気取りなし。羊飼いの酒井伸吾さんが「べーベーべー」と呼べば、振り向いて「べー」と鳴き、近くにまで寄ってくる。部外者が構えたカメラにも余裕しゃくしゃく。まずは酒井さんといっしょにパチリ、次に関澤さんも入ってパチリ。
羊との間にある信頼関係は「いい肉を作ろうとするのではなく、健康な母羊を育てるのが大切。それにはていねいに飼うこと」という酒井さんの姿勢が土台にあるのだろう。
日常から羊を注意深く観察し、夏は放牧、冬は畜舎で飼う。牧草は食べ放題で、配合飼料は小麦やビートパルプに納豆菌や酵母、炭などを加える。生体に優しい飼料由来の糞なら心置きなく堆肥として土へと戻すことができる。
羊種にこだわりはない。サフォークやチェビオットなど数種の羊を導入し、そこから生まれた雑種も飼っている。
「品種やサイズはそれほど気にしません。それより、何を食べてどう育ったかが大切です。同じ身長と体重でも、健康的な食事をして運動して大きくなった体と、お菓子ばかり食べて太った体のどちらの肉質がいいかは言うまでもありませんよね」
羊との出会いは畜大だった。農家の手伝いで得た羊毛での糸紡ぎに夢中になり、羊飼いが夢となった。卒業後は牧場勤務を経て、モンゴルで遊牧民と生活をともにし、帰国後、学生時代から実習等で知己のあった武藤さんの茶路めん羊牧場で2年間勤務した。
多面的な羊の魅力を活かそうと、牧場の名前は「羊まるごと研究所」とした。 酒井さんの毛刈りの技術は国内有数。自ら刈った毛で毛糸をつむぎ、肉の状態を確認する。毎年の出頭数は100頭前後。いま以上に増やす気はないという。
「僕の場合、頭数を増やすと味がブレてしまう。無理に数を増やすと、僕も店もお客さんも満足できない羊になってましまうかもしれない。それでは誰も幸せになりません」
酒井さんにとって、羊は「尊敬の対象」ですらあるという。
「暮らしのなかに羊を獲得した民族は必ず羊から文化を育んでいます。羊毛製のモンゴルの(住居である)ゲルからもわかるように、羊には衣・食・住のすべてをまかなうポテンシャルがある。こんな素晴らしい生き物を尊敬しない理由が見当たりません」
語る笑顔の中に本気が宿る。羊肉、羊毛、羊皮――。我々はまだ羊を知らない。
羊まるごと研究所
北海道白糠郡白糠町和天別1054-5
TEL/FAX 01547-2-5133
http://himakenn.fc2web.com/
text 松浦達也 photo 岡本寿
※本特集で取り上げた牧場は観光牧場ではありません。取引申し込みや見学等に際しては事前連絡の上、牧場主の了承を得たのちに訪問してください。
本記事は雑誌料理王国2020年3月号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は2020年3月号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。