旧市街の美しい街並みを舞台に地域と人が共に楽しむ“函館西部地区バル街” 北海道函館市 23年8月号


幕末の黒船来港をきっかけに、海外へ門戸を開き発展してきた函館。1970年代までは北洋漁業基地として栄えたが、鉄道と道路の発達で生活の中心が東の新市街へ移り、港町の賑わいは失われていった。が、その港町で生まれ育った一人のシェフがやがて、新しい賑わいを生み出す。地域の飲食店を巡るイベント“バル街”だ。その魅力をひも解く。

初夏の夕闇にライトアップされて浮かび上がる、古く美しいビル。その足元を走り抜けてゆく市電の線路を越えて入り口に近づけば、頭上の窓から降り注いでくるのは、楽しげなチャチャチャの音色。まるで外国の街角にいるよう ̶ ̶立ち止まり、その心躍るような時間を味わう。道ゆく人々の多くが地図を手に、ビルから港の方へと歩いてゆく。コロナ禍で開催できずにいた一夜限りのイベント“函館バル街”がこの日、3年半ぶりに開催されたのだ。

正式名称は「函館西部地区バル街」。2004年から毎年、春と秋に開催されてきた食のイベントは今年で19年目を迎え、発起人は「新バスク料理の父」と呼ばれるルイス・イリサールが営んでいたスペイン、サン・セバスチャンのレストラン「グルッチェ・ベリ」で修行し、故郷・函館で「レストラン バスク」を開業した深谷宏治シェフ。全国各地で食を介した地域活性の取り組みが行われているが、その先駆けとして知られている。

サン・セバスチャンの街。
(写真:深谷宏治)
修行時代の写真。ルイス・イリサールと。
(写真:深谷宏治)

事前に予約していたチケットの受け取り場所が、このビル「函館市地域交流まちづくりセンター」。1階の受付で深谷シェフと実行委員会の田村昌弘さんにお会いし、チケットを受け取る。5枚ひと綴りのチケットと一緒に手渡されるのが、道ゆく人が手にしていたバル街マップだ。「協力してくれる店舗は例年70軒ほどで、4000冊のチケットは10日を待たずに完売します。ほとんどが毎回来てくれる市内の人ですよ」と、田村さん。各店舗ではこの日のために趣向を凝らしたピンチョスを用意。参加者は街を歩きつつ気になる店を巡り、それを楽しむという趣向だ。
「始めた当初はこんなに続けるつもりはなかったんです(笑)。でも、地元の人が喜んでくれるのが嬉しいし、何より自分達が楽しくて」

夕方から始まる恒例の生ハムとワインの振る舞い。
バル街と世界料理学会の事務方として活動を続ける田村昌弘さん。
20年以上にわたり深谷シェフの活動を支えている「こなひき小屋Hutte」の木村幹雄さん。
バル街マップとチケット。

そう言う深谷シェフの生家であり、レストランバスクの支店でもある「ラ・コンチャ」(現在は休業中)も港近くにあり、この日はバル街の参加店になっていた。地図を頼りに訪ねてみると、もとは米穀商を営んでいたという建物は1階が引き戸や格子窓のある和風、2階が縦長の上げ下げ窓がある洋風、という函館独特の和洋折衷住宅。ここにもまた、行列ができていた。並ぶうち、隣あう同士で自然と会話が始まる。後ろの三人組は市内在住とのこと。「毎年必ず来て、気になっていたお店を巡るんです」「この辺は観光地のイメージで市民が飲みに来ない場所。でもバル街をきっかけに足を運ぶようになりました」など、田村さんの言葉通り地元の人々が街を楽しんでいる様子。

バル街の開催時間は12:00から24:00。参加店舗により営業時間が異なる。こちらは深谷シェフの実家兼店舗「ラ・コンチャ」の様子。
店内でピンチョスとワインを楽しむ人々。
ラ・コンチャ」のピンチョスは甘エビのクリームコロッケにサクラマスの酢漬け、メークインと豚肉のサラダ。サングリアと共に。

そもそもバル街誕生のきっかけは、深谷シェフが2004年に函館で開催した国際会議「スペイン料理フォーラム」にある。深谷シェフが帰国した1978年以降、スペインではルイス・イリサールがポール・ボキューズを招いての勉強会を経て、81年に「ヌエバ・コッシナ・バスカ(新バスク料理)」を宣言。90年代にはフェラン・アドリアも登場し、スペイン料理が世界の料理シーンを牽引していたのだが、当時の日本では未だ「ヨーロッパの田舎料理」程度の認識。深谷シェフは自らが学んだバスク料理を含むスペインの食文化を正しく理解してほしいと、国内外からスペイン料理はもちろんフレンチや中華の第一線で活躍するシェフを呼び、会議を主催。その前夜祭として、スペインの食文化の基盤であるバルを巡る楽しさを再現しようと、旧市街の店舗に声をかけ、25 店舗でチケット制のバル巡りイベントを仕掛けた。これが、今のバル街の原点。そのイベントが実に楽しいと評判を呼び、以降、毎年開催されるようになったそうだ。

街のあちこちで行列が。
.隣同士で会話が生まれるのもバル街の楽しさ。

サン・セバスチャンで学んだ料理人の矜持と遊び心が原点

今でこそ世界中からフーディが訪れるサン・セバスチャンだが、深谷シェフが修行をしていた当時はフランコ政権末期であり、内戦以来、右派と対立していたバスクは中央政府から睨まれ、バスク語の使用も禁じられていた時代。
「サン・セバスチャンは19世紀以降スペイン王室の避暑地で、夏の3ヶ月は政治の中心でもあった場所。だから高級ホテルもあり、フランスから料理人が来てバスク人に技術が伝わるなど、下地はあったんです。フランコ政権下で抑圧されていたバスクの人々には“政治家は政治で、スポーツ選手はスポーツで、料理人は料理でマドリードと対抗する”という思いがあり、ルイスもそうでした。マドリードで店を開くのは簡単だが、そうはしない。本当に美味しい料理を食べたければここに来なければならないようにする。そのために料理人同士が繋がり、時間をかけて習得してきた技術や知識を教え合う勉強会を始めたんです。料理のレベルを上げるんだ、と。“サン・セバスチャンを中心に50kmの円を引けば、そこにはトリュフやワイン、フォアグラ、鱈に鰯など最高の食材がある。それを使い、この街を世界一の美食の街にしてみせる”と言って、実際にそれをやってのけた」

深谷シェフも2年に一度は彼の地を訪ね、絶えずアップデートされてゆく仲間の活躍を目にしてきた。そうした経験から、自らも函館の地でシェフ同士が繋がる勉強会を始める。「1998年から始めた“クラブ・ガストロノミー・バリアドス(通称ガスバリ)”は、月に一度、仲間の店の営業が終わった頃に集まって、普段は提供していない料理を出しながら、食材や調理法についての考えをぶつけ合う研究会。道南で活動しているフレンチ、中華、寿司、和菓子、シャリキュトリなど、その道のブロが参加しています」

ガスバリ仲間で参加していた「ラ・リヴィエール」の佐々木宏次シェフ。
同じく「八花倶楽部」の小西康範シェフ。
弘前から出張出店したフレンチ「レストラン山崎」の山﨑隆シェフ。

こうした活動の延長上に前述の「スペイン料理フォーラム」があり、さらに2009年からは国内外の気鋭のシェフを呼び、テーマ食材についての考え方を発表し合う「世界料理学会 in HAKODATE」をスタートさせた。こちらも1年半に一度の開催が続いているが、そのきっかけもスペインにあったと、深谷シェ
フ。1999年からルイス・イリサールらが中心となり始まった「最高美食会議(ガストロノミカ)」だ。各国のシェフが自らのスペシャリテについて論理的に、科学的に、自らの育ってきた土地の歴史や背景まで掘り下げ発表し、共有する。その様子に心震えた深谷シェフは10年後、それを函館の地で実現したのだ。
「ギャラもないし、最初はなかなか(笑)。でも一度参加すると、すごく面白いからぜひ続けてくれと言われるんです」。バル街もガスバリも料理学会も、原点は全て師のルイスから学んだことだと、深谷シェフは続ける。
「それは、料理人が街を創り、社会に関わる、ということ。実は、バル街の本当の目的は旧市街の魅力を市民に知ってもらい、美しい街並みを維持することです。海に突き出た湾に囲まれ古い建物があるサン・セバスチャンは、函館ととても似ている。人口もさほど変わりません。でも彼の地では公共空間を美しく維持する努力を惜しまない。海岸は毎日暗いうちにトラックが入り清掃され、海岸に面した広場は景観を損なわないよう、駐車場も電柱も地下に収めている。僕がいた頃に3年もかけて工事をしてしましたが、ルイスは“これであと100年工事する必要がなくなった”と喜んでいました」

補助金に頼らない有志による運営が“四方よし”のイベント成功の秘訣

函館旧市街には、明治期以降に建てられた古い建築物が点在している。それらがバル街で一帯を逍遥する際の大きな魅力になっているのだが「80年代後半、都市景観を目玉とする観光開発が進む傍らで、バブル景気に沸いた首都圏の投資マネーが函館にも流れ込みました。古い建物が壊されマンションが次々に建てられ始めていた」と、田村さんは言う。そうした流れに危機感を持った地元有志が、1983年に“元町倶楽部”という市民グループを結成、街並みをテーマにした研究活動をスタートさせた。活気を失った旧市街の魅力を再発見し、活性化させたい…思いを同じくする深谷シェフと共にバル街の運営を支えているのは、こうした地元の仲間たちだと、田村さん。

ル街の舞台は函館港周辺、約2.5km×1kmの範囲に広がる旧市街地。
函館山から港へと続く坂道やその周辺には古く美しい建物が残る。

例えばシェフと一緒に生ハムを振舞っていたパン職人の木村幹雄さんは、深谷シェフの昔からの遊び仲間。「ガスバリもバル街もフォーラムも、一緒に飲み食いする中、面白いことやろうよ、という感じで始まるんです。なんでも言い出しっぺは深谷さんで、木村なんか考えてよって(笑)。食も街も音楽や映画と同じ文化。楽しまないと続かないですよ」。ガスバリ仲間で中華料理のシェフである小西康範さんやフレンチのシェフである佐々木宏次さんも、皆同じように「楽しいからできる」という。それこそが、函館バル街が20年近く続く理由なのだろう。
「運営の担い手が普通の市民で、行政の補助金や企業の協賛に頼らないからこそ、自由に楽しめるし、続けられるのだと思います。参加店よし参加者よし地域よし、という“三方よし”に加えて担い手も楽しいという“四方よし”が、バル街です」

深谷シェフと木村さんが振る舞う生ハムとバゲット、そしてワイン。

運営の裏方として2007年から参加しているその田村さんの言葉通り、参加店への声がけに始まりポスターやマップ、チケットも仲間内で作り、当日の運営、イベント終了後の精算まで全て有志の手弁当だ。「皆さんからはボランティアでの運営は大変ですね、と言われますけど、私達自身が一番楽しいからこそやってるんです」と笑う。

そんなバル街の成功が世に知られるようになると、全国の自治体や各地の商店などから「うちの地域でもやりたい」とオファーが届くように。実行委員会が惜しみなくそのノウハウを共有してきたことで、コロナ禍前までには全国200箇所以上で同様のイベントが開催されてきた。こうした取り組みが評価され、2017年にはその活動がグッドデザイン特別賞(地域づくり)を受賞、2019年には「第41回サントリー地域文化賞」を受賞し、関係者の大きな励みなったそうだ。

マップを手に、港へ続く坂道を登り下りしながら店を巡る。まだ肌寒い夜気の中、それでも楽しげに列をなす人や謝りながら売り切れたピンチョスの看板を外す人、出来立ての料理を嬉しそうに頬張るカップル…。街と食と人が作りだす“幸せ”が凝縮された時空。それが、バル街の魅力なのだ。

バル街マップの「攻略したい店」にマーカーでラインを引いて計画を練る人も。
カップルや着物姿で参加する人など、どの店も満員!
各店舗で提供されるピンチョスも多彩。

レストラン バスク
深谷宏治

1947年生まれ。東京理科大卒業後、75年に渡西・サン・セバスチャン「グルッチェ・ベリ」での修行を経て85年に「プティレストランバスク」オープン。著書に『スペイン料理 料理・料理場・料理人』『料理人にできること』(共に柴田書店)など。

text: Kie Oku photo: Tomoko Osada

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