【フレンチコラム】シェフの新時代を切り開いたパイオニア。ジョエル・ロブション氏


自営の店を成功させて国際ビジネスへと展開

フランス料理の歩みにはいくつもの転機がある。70年代初めの「ヌーベル・キュイジーヌ」も大きな転機だった。その時代を経て、ジョエル・ロブション氏のようなスターシェフが生まれ、それは現代へとつながっている。

ロブション氏の料理で初めて体験した「味の密度」

私がロブション氏をまさに「スター」と実感したのは、彼が「ジャマン」をオープンした翌年の1982年のことだった。まだ10 代の私は、料理ジャーナリストだった母に連れられて「ジャマン」を訪れた。記憶に残っているのは、4 匹ほどのラングスティーヌ。私は「少ない!」と憤慨し「やっぱりヌーベルは好きじゃない」と偉そうに宣言した。というのも、「ヌーベル・キュイジーヌというレッテルが付いた瞬間、料理の量が少なくなり、値段も高くなった」と不満を漏らす客やメディアの声を耳にしていたからだ。しかし、食べてみると不思議なほどの満足感。量ではなく、「味の密度」で満腹になった。残念なことに味は忘れてしまったが、その時にロブション氏のすごさを痛感したことはよく覚えている。

90 年頃からロブション氏の成功と並行して「シェフ」という存在がクローズアップされ始めた。名もない使用人だった「シェフ」が「自営」の店を成功させ、国際ビジネスに展開していく時代の始まりだった。その先端を切ったのがロブション氏とアラン・デュカス氏だ。「タイユヴァン」や「トゥール・ダルジャン」などパリの有名店が東京に進出し、フランス料理は一気に地球を巡った。バブル期の日本は、莫大な報酬でフランスからシェフを招き入れ、ロブション氏は史上最高額の契約を日本の大企業と交わしたという。

ずばぬけた「クリエーター」だったアラン・サンドランス氏(「アルケストラット」「ルカ・カルトン」)やクロード・ペロ氏(「ヴィヴァロア」)は違った。一世代前だったからか、職人気質だったからか、パリから出ようとはしなかった。

母増井和子が1985年に書いた『パリの味』の30ページ(文芸春秋・写真丸山洋平)。パリのホテル日航「レ・セレブリテ」時代から追っていたロブション氏の新店「ジャマン」を語っている。

本記事は雑誌料理王国277号(2017年9月号)の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は277号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。


SNSでフォローする