龍馬も食べた!?日本初の西洋料理人「草野又吉」とはだれか?


かの美食家、ブリヤ・サヴァランがフランスで「チーズのないデザートは美女がどうのこうの」などと語っていた頃、遥か東方の日本は鎖国の真っ最中。フランスどころか日本以外に国があるなんて、多くの庶民はイメージできなかったかもしれない。あるひとつの場所を除いては。そう、長崎である。海外貿易の唯一の窓口という使命は、そこに暮らす人の意識も海の外へと向かわせた。草野丈吉。日本初の西洋料理人といわれる人物だ

ことはじめよりもっとはじめ

フランスの地をはじめて踏んだ日本人は?フランスの南東部にあるサン・トロペという小さな港町。ここに、1615年「鼻の低い、髪を頭のうしろで白布で結んだ、日焼けした小柄の東洋人と思える一団」が来たようで、静かな町が大騒ぎになったそうだ。この一団こそ、1613年に日本を発った支倉常長(はせくらつねなが)率いる慶長遣欧使節団。記録に残る「フランスの地をはじめてふんだ日本人」である。彼らはイタリアのジェノヴァへ船で向かう途中に嵐にあってしまい、難を避けるためにサン・トロペに逃げ込んだ。サン・トロペの役人は、海岸に近い土地の名家、オレノ・コスト未亡人邸に案内して、嵐がおさまるまでの仮の宿としたそうだ。

彼らの様子はフランスの記録にこう残されている。「肉を食べるとき、自国から持参した二本の箸を用いる。また、フランス人がスプーンを用いるように、箸を使って米を食べる」。箸を持参したのか。すばらしい。また、一行のなかには、片言のフランス語を話せるものもいて、意思の疎通はできたそうである。

日本の地をはじめて踏んだフランス人は?

この問いに対する答えには、少々暗い影が落ちる。なぜなら、フランス人が来日する目的はキリスト教の布教であり、彼らが訪れた頃の日本はキリシタン弾圧のさなか。来日フランス人第一号とされるギョーム・クルーテ神父は、1637年、長崎で殉教した。

ところで、キリシタンにかかわらず、当時の日本は鎖国下にあったわけだが、通商関係にあった唯一の国、オランダ人に混ざってフランス人が来てはいないのだろうか?それが、どうもオランダ人といつわって潜入しているようなのだ。1767年「ストラスブール出身のヤン・フレデリック・ワルダー伍長」が長崎において死亡したという記録があり、彼は出島の給仕係だったらしい。

龍馬も食べた!?草野丈吉のオランダ

料理日本初の西洋料理人は、長崎生まれの草野丈吉といわれている。丈吉は天保10(1839)年農家に生まれ、18歳の時、オランダ人の家の洗濯雑用係に雇われた。開国を機に、20歳の丈吉はオランダ軍艦プレッキ・セロットの乗組員になり、外国人の料理人のもとで料理修業をする。丈吉の料理は、外国人船員にも大変評判がよかったそうだ。

自信を得た丈吉は、文久3(1863)年、24歳で長崎郊外、伊良林の自宅を改造し、良林(りょうりん)亭という西洋料理店を開く。山の上の辺鄙(へんぴ)なところで、六畳一間だから6人以上は収容できない。使用人はいないから、丈吉ひとりで料理をつくり、サービスをした。料金は、一人前参朱(約2万円)。結構、高い。それでも大変に流行った。役人や商人たちが、外国人接待の場を必要としていたからだ。ちなみに、坂本龍馬の亀山社中もすぐ近くにある。記録には残っていないが、新しい物好きの龍馬のことである。得意の短靴をはいて、食べにいったのではあるまいか。

長崎・グラバー亭内にある。(社)全日本司厨士協会が建立した。

肉を食べたい外国人へはじめての屠畜場は長崎

料理の値段が高いのには理由がある。材料のほとんどが輸入品だからだ。

問題は肉である。出島のなかでは、古くから牛や豚を飼い、乳を搾ったり、屠畜していた。しかし、これらはいわば治外法権の場である。日本最初の公認屠畜場は文久2(1862)年、長崎古河町海岸にできた。斡旋したのはアメリカ領事館だが、早くも半年後には牛の入手がむずかしくなって、アメリカ側は奉行が農家に牛を売らないように指示しているのではないかと詰問している。丈吉もここで屠畜された肉を使ったはずだから、仕入れには苦労したに違いない。

パンとワインはキリスト教につながるものとして、鎖国時代、幕府はとくに警戒した。パンを焼くことはオランダ屋敷に納品する店のみが許され、世襲となった。ワインはチントヴィノ(赤ワイン)は厳禁だが、珍駄酒(ちんだしゅ)と表記すれば許された。なにごとも、抜け道はあるものである。

フランス料理を名のるライバル店が出現

丈吉は翌年店を便利な場所に移し、料金も1歩と上げ、「自遊亭」と名のった。そんなに流行るならばと、慶應元(1865)年、丈吉の親戚が北京で習ったフランス料理を売り物に、「藤屋」を開業する。オランダよりもフランスのほうが、料理では格が上という認識があったのだ。

「ほう、ここでついにフランス料理か」と思われたかもしれない。残念だが、藤屋がどの程度「フレンチ」であったかは、定かではない。そもそも、当時の長崎の人にとって、西洋人はすべてオランダ人。長崎オランダ坂といえば、〝外国人が通る坂道〞という意味だ。中国といえばインドネシアまで入る。牛乳もバターも肺病の薬だった時代である。日本人が本格的な西洋料理を食べられるわけはなく、料理屋でも日本人向けの「和洋折衷メニュー」を用意していたのである。

日本を代表するグランシェフに!?

ただし、出島にも潜りでフランス人はいたらしいし、文久3年にはフランス領事館が置かれる。むしろ、目端が利き、勉強熱心な丈吉は案外、ちゃんとしたフレンチを出していた可能性がある。というのも、藤屋は丈吉の店に押され、日本料理に転向するが、丈吉の店は「自由亭」と名を改め、西洋料理を貫く。大阪、京都にも進出し、外国人用の止宿所(ホテル)も兼ねた料理店をつくる。明治12(1879)年、長崎を訪問したアメリカ大統領グランド将軍はじめ、イタリアやロシアの皇族の料理も担当する。こうなると、日本を代表するグランシェフのひとりである。ここに至っては、初期のオランダ料理を脱し、当時としては最高の、どこに出しても恥ずかしくない晩餐メニューをつくっていたはずである。

これはもうフレンチに違いない。きっとそうである。そのはずだ。声を大にして訴えたい。

スターシェフとなった丈吉だが、47歳で亡くなってしまう。当時をしのばせる自由亭の建物は、現在、長崎「グラバー亭」の近くに移築し、保存されている。丈吉とともに華やかなスタートをきった長崎の西洋料理だが、貿易の中心が神戸、横浜へと移るとともに、その座を譲っていくのである。

中島久枝 – 文

本記事は雑誌料理王国155号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は155号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。


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