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【連載】和食のルーツをさぐる⑤   『至高の縄文鍋プロジェクト』


日本の食文化のルーツをさぐる

約5,000年前に定住型のムラと社会を支えた食は、集落周辺の多様で新鮮な食材とその持ち味を尊重したものであり、結果として栄養バランスの良い健康的な食生活につながったと考えられる。この内容は、「和食:日本の伝統的な食文化」が無形文化遺産に登録された際に、農林水産省が掲げた四つの特徴のうち、二つに合致している。さらに、イボキサゴの利用のあり方は、うま味の積極的な利用が、この時期に遡ることをものがたっていた。初回冒頭に述べた、「和食のルーツは縄文鍋にある」という考えは、こうした見方によるものである。

外国人旅行者の訪日目的の第1位は「日本食を食べること」であるという。「和食」や日本の伝統的な文化の魅力や面白さを伝える深いストーリーを紡ぎ、それを実感できる料理を提供できれば、きっと国内外の来訪者を魅了することができるだろう。

2017年10月、加曽利貝塚は国特別史跡に指定され、千葉県に初めて国宝級の不動産文化財が誕生した。貝塚としても初めての指定である。千葉市は、貝塚研究と市民活動の拠点となる新博物館の建設を目指している。地域の至宝を教育・文化の醸成、観光戦略に活かす絶好の機会ととらえている。千葉県内に残るたくさんの縄文貝塚のほか、干潟、丘陵、里山など和食のルーツをさぐるための豊富な情報と素材を活かした活動を行っていきたい。

土鍋を飾る文化

縄文土器の大半は「深鉢」と呼ばれる深い土鍋である。寸胴のように鍋・煮込み料理に適した形をしている。各時代に使われた土鍋のなかで、独自の特徴は装飾に富むことである。世界的に見ても、土鍋をこれほど飾る文化は他にないという。大きなものが多く、大量に使われたことも特徴である。弥生時代以降にサイズが概ね一定であるのは、一家族分に適した容量なのであろう。縄文土器が大きく、大量に使われた理由としては、調理やあく抜きなどの下ごしらえ、スープの火入れなどがムラ単位で行われたことが考えられる。なぜ土鍋を飾ったのかは難しい問題だが、日常の器=雑記ではなく、鍋や鍋料理自体が特別なものだったのではないか。鍋料理と、食材として利用された動植物が、豊かなくらしを育んだことが語り継がれていたのかもしれない。

千葉県に大型貝塚が現れた縄文時代中期は、「火焔型土器」「勝坂式土器」「曽利式土器」など、とくに躍動的な造形が発達するが、千葉の土器は比較的さっぱりしている。加曽利貝塚の名前がついた「加曽利E式土器」は機能美が讃えられるが、むしろ土鍋を飾るより、中身にこだわり、美味しい鍋が開発されていたのではないか。下の図は加曽利E式でも後半の土器で、器形や文様が緩んでいるが、上部がふくらみをもって広がる「キャリパー形」を受け継ぐ、高さ1mを超える大鍋である。

加曽利E式
深鉢口径77cm、高さ102cm。加曽利E式土器は全体を復元できる率がきわめて低いことが特徴だが、このサイズの口縁部破片はたくさん出土する。このような大鍋が使われていたのである。

至高の縄文鍋プロジェクト

豊かな文化と社会をつくったイボキサゴの魅力は、ごくわずかしか解明されていない。さまざまな角度から研究や体験、活用を行う「イボキサゴプロジェクト」をゆっくりと進めてきた。今後は、東京湾の魚介類や海藻、房総丘陵のイノシシやシカ、下総台地のドングリ、クリ、クルミ、イモ類、マメ類、エゴマ、キノコなど、千葉の縄文人が利用できた「縄文食材」を使った「至高の縄文鍋プロジェクト」に発展させたいと考えている。

縄文人を「グルメ」と表現することがあるが、日常的に世界各地の食材を利用しているわたしたちが、彼らをそう呼ぶのは相応しくない。ただし、地域の身近な食材の持ち味を活かす点に限れば、わたしたちは縄文人の域に達していない可能性が高い。むしろ、戦前まで各地に残っていたものが失われつつあると言ったほうが良いかもしれない。縄文人を知る研究や活動は、失われつつある日本の良い部分を知り、大切にする心をつないでいく力をもっている。「縄文鍋」のプロジェクトが全国に広がり、各地の素材を活かした料理が開発されることを夢見ている。

縄文貝塚と房総の自然の魅力

東京五輪が行われた1964年、加曽利貝塚は破壊の危機にあった。市民から全国に広がった保存運動によって「北貝塚」の保存はすぐに決まったが、「南貝塚」は発掘して開発を許可するのが国の方針だった。保存か開発かをめぐって国会で繰り返し議論が行われるなか、全国で初めて大型貝塚の大発掘がはじまった。累々と積み上げられた貝層、多数の人骨の出土など、重要性は疑いようがなく、ついに国会で全面保存の方針が決まった。何より開発が優先された時代に、市民から始まった活動と発掘調査の成果が国を動かし保存が実現したことは、のちの遺跡保護に大きな影響を与えた。

1960年代、全国で開発と遺跡保護の問題が高まるなか、京葉工業地帯は、遺跡の集中地帯における大規模な造成計画として注目を集めた。実際に失われた遺跡の数は想定を大きく超えるものだったが、発掘で得た成果も想像をはるかに超えるものだった。

今回のお話も、大型貝塚の大発掘や、それに伴う貝塚の発掘調査と分析・研究方法の改良によるところが大きい。千葉県内には、全国の3割にあたる約700か所の縄文貝塚がある。このうち約100か所が大型貝塚であり、その多くが「東京湾東岸の大型貝塚群」を構成する。つぎの地図には、明治時代の干潟を加えてある。これをみると、大型貝塚群が、内湾干潟の豊かな資源によって形成されたことがよくわかる。数千年前の食や生産活動についての情報が、これだけ豊富な地域は世界にも稀であろう。

千葉県の地形と縄文貝塚の分布

いっぽう、東京湾の干潟も1960年代に全面的な埋立てが計画され、ほとんどが失われていった。縄文人の生活を支えた豊かな海のうち、残されているのは木更津市の盤洲(ばんず)干潟、浦安市~船橋市の三番瀬(さんばんぜ)、富津市の富津洲、横浜市の野島干潟のみである。

東京湾湾奥部の干潟
泉水宗助1908『東京湾漁場図』をもとに作図。灰色が明治時代の広大な干潟。現在残るのは青枠の4か所。

盤洲干潟の範囲
グーグルアースに干潟の範囲を示した。袖ケ浦市との市境から木更津港までの延長12km、幅最大2kmほどの規模をもつ全国屈指の自然干潟である。

さいごに

干潟の埋立てや工業地帯・ニュータウンの建設は、現在の千葉県の土台を築き、私たちの生活を支えている。しかし、地域の魅力を否定するようなバランスを欠く開発計画がかつて存在したことは記憶されるべきであろう。近年、再び大規模な開発が増えるなかで、残された地域の宝を認識し、後世に伝えていくことが求められている。

「東京湾東岸の大型貝塚群」には、北海道・東北、北陸・中部高地のような、誰が見ても驚く縄文工芸は少ない。その代わり、多くの縄文貝塚が保存され、東京湾や房総丘陵の自然が残されている。日本の伝統的な食文化のルーツや醸成過程を調べ、実際に味わうための素材は揃っている。加曽利貝塚博物館を中心に、多くの関係機関、貝塚をもつ市町村や市民、食材の調達や料理に関わるみなさんとともに縄文鍋プロジェクトを展開していきたい。

加曽利貝塚PR大使 かそりーぬ
加曽利E式土器を頭に乗せ、イボキサゴのネックレスをしている。



料理王国の読者の皆様にも、ぜひ千葉の食材や各地の「縄文食材」をご利用いただき、新メニューの開発や、活用のアイディアなどのご指導をお願いしたい。

西野雅人(にしのまさと)
千葉県柏市で育つ。明治大学卒業後、千葉県の職員として遺跡の発掘や保護の仕事を続け、現在は千葉市埋蔵文化財調査センター所長。大学1年で参加した貝塚の発掘にはまり、それから40年千葉県の貝塚研究をもとに縄文人の資源利用や食文化の解明に取り組んでいる。特別史跡加曽利貝塚を貝塚研究の拠点にして、魅力を発信・活用していきたいと日本酒を飲みながら考えている。


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