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【人気繁盛店のつくりかた】採算度外視できる体制が鍵。神宮前「割烹 樋口」


採算を度外視できる体制が、質の高い料理を生み、お客を吸い寄せる。

「人通りの少ないこの場所で、一日の来客が1~2組の時期が2、3年続きました」と語る主人の樋口一人さん。ここに店を開いたことは、彼と家族にとって重要な意味があった。「ここは祖父母の家をテナントビルにしたものです。早くに父を亡くしていた私が料理人になった時に、最初に包丁を買ってくれたのが祖父でした。その祖父が病でいよいよということになった時、周りから私に店をやらせようという話になったんです」。建物は伯母さまの持ち物であったため、保証金なしで開店にこぎ着けることができた。イニシャルコストの低さに加え、家賃面でも優遇されたことで、じっくりと腰を据えた商売をすることができたのは大きいだろう。通常の店舗経営では、お客の少ない状態でも2、3年続けるには相応の運転資金を用意しておく必要があるが、恵まれた環境ゆえ、素材の質を落とすことなく、お客を待つことができたのだ。

 開店当初は厨房に樋口さんひとり、ホールはお母さまと伯母さま2名の交代制で、価格設定も今より抑えられていたため、客単価は1万円程度。一日4名として、1カ月の売上が100万円にも満たないなかで、原価率も45%前後を維持していたのだから、通常この価格では提供できない料理を作っていたことが想像できる。低迷していたと思えるその時期こそ、力を蓄えるための準備期間で、常連客に価格と質のバランスが認められるにいたる雌伏の時間だったのだろう。

人との出会いによって繁盛店となった

そんな店が転機を迎えたのが、女将との再会だった。青山「穂積」での修業時代に、仲居として働いていた彼女がサービスに入ることになった。客あしらいが上手で、ワインにも精通する彼女のおかげで店の雰囲気が変わった。その後、ふたりは結婚し、若い夫婦ふたりでがんばる姿に、応援する人も増えた。とくに、ご近所に住む食通の紳士があらゆることを教えてくれた。  

「鮎の粋な食べさせ方から、すだちの搾り方までなんでも教えていただき、食べたいと言われるものをお作りしていました」。京都などでは料理人に意見をいう常連は多いが、東京ではそんなお客を得ることは今や稀なことかもしれない。運命的な場所、偶然再会した女将、ものをいうお客。そういった出会いによって、「樋口」という店が完成した。そしてもうひとり、非常に大きな存在がいる。

「『穂積』の料理長です」。お客と料理への思い入れがとても強い人物だった。いい素材を使いたいから、と原価を上回ることがあれば、自ら身銭を切ることをはばからないという姿を見てきた。「料理人として一番の目標です。昔気質の方で、彼の仕事を見たい一心でそばを離れず仕事を覚えました。それまでは休みとなればサーフィンに出かけたりしましたけど、29歳からの5年間は仕事に没頭しました」。最後に常連をつかむコツを尋ねると「店に来ていただけることがうれしいんです。今も築地に通い続け、いいものを真剣に選んでいます。そういうことが、お客さまにも伝わると思います。いい加減なことをすると、いい仕入れ先を紹介してくれる仲間もなくします」。

実直であること、それが「樋口」の評価につながっているのだろう。

「樋口」の名物のひとつである、手打ちそば。コースの〆めとして、手打ちそばか、ごはんを選ぶ。樋口さんは「穂積」時代からそばを打っていたとい
う。

初夏の料理として意外な、鱧と湯葉のお鍋。季節柄、どうしても冷たい料理が多く、クーラーも効いているから、椀物の代わりに小さなお鍋を出すことが多い。

樋口一人さん
1966年東京都生まれ。高校卒業後、赤坂の日本料理店「茄子」で修業を始める。7年半勤め上げたのち、麹町「中置」を経て、青山「穂積」では二番手を任され、2000年に祖父の家のあった現在地で独立。

text : Dai Matsuo /photo : Yuu Nakaniwa

本記事は雑誌料理王国2011年8月号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は2011年8月号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。


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