フランス料理やイタリア料理の名店で腕を磨いてきた井川さんは、両方のジャンルに精通し、現在の赴任先であるコペンハーゲンでは和食もこなす。「専門分野の洋食より、和食を作る機会のほうが多いですね。パーティやイベントで求められる料理の8割は和食ですから」と語る井川さんだが、同じ日本料理でも、彼の作るものはひと味違う。それは、彼が洋食と和食の違いやそれぞれのよさを熟知し、時にはジャンルを越えて、それらの技を自在に使いこなしているからだ。
「どのような違いかというと、たとえば洋食のほうは煮詰めたり炒めたりして旨味やコクを表現するのに対して、和食は昆布や鰹節の出汁をベースにします。調理法も和食では煮からめるということはしますが煮詰めたりはせず、出汁の味を活かして、ゆでたり蒸したりします」
ただし、海外ではこれに応用が必要だ。
「コペンハーゲンは日本の東北地方より少し緯度が高い位置にあるため寒い。塩をやや多めに調味しないと、はっきりしない味わいになってしまうんですね。その強めの塩分に負けない出汁にするには、鰹節を通常の1.5倍から2倍程度使う必要があります」
こうした知識は、公邸料理人を経験した先輩から学んだ。また、「お造りの技や鮨の握り方、天ぷらや茶わん蒸しの作り方など、代表的な和食のテクニックを身につけておくように」というのが、公邸料理人を体験した人たちが一様にするアドバイスだ。
「和食の勉強や研究は赴任してからでもできますが、行く前に備えておくに越したことはありません。それと、これは僕の体験によるアドバイス。海外では、アレルギーのある人、ベジタリアンやヴィーガンなどの要望に応えなければならない場面が非常に多いので、想定したメニューを考えておくことです」
井川さんはフランスで働いた経験があるため、こうした対応には慣れているが、なかには複数の制限を主張するゲストもいるので、海外での経験がないと戸惑うことが少なくないのだ。
さまざまなニーズに応えつつ、しかも完成度の高い井川さんの料理を絶賛するゲストの中には、「今度、ぜひ私の家にも食事にいらしてください」と誘ってくれるゲストもいる。
「遠くイギリスからのお誘いもあります。非常に光栄なことで、今はコロナ禍でうかがえませんが、いつかきっと実現させたいと思っています」
こう語る井川さんのこれからの目標はフランスに自分の店を開くこと。独立資金も貯めなければならないので、その意味で、海外でキャリアが積めるうえに一定の収入が得られる公邸料理人の仕事は好条件だ。
「フランスの伝統的な料理とワインが楽しめるビストロを開けたらと思っています」
公邸料理人の中から、フランスできらめく日本の星がまた1つ誕生することを期待したい。
text 上村久留美
本記事は雑誌料理王国2020年12月号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は2020年12月号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。