今の自然派ワインにも日本酒ムーブメントにも、
共通する面白さと同時に、どこか違和感を感じている人も少なくないだろう。
そこで、ワインにも酒にも共通する美点と問題点について、
独自の視点を持つワインジャーナリストであり、
日本酒のコンサルタントとしても活躍する田中克幸さんに語ってもらった。
環境問題への意識が高まり、人間と自然との結びつきのありようが再考されている昨今、まさに人間と自然の接点にして協働作業たる農業に注目が集まるのは当然である。酒は農産物であって工業製品ではない。この20年ほどのあいだに起きた酒の再定義を単純に言えばそういうことになる。
ゆえに、どういう酒がナチュラルなのか、という試行錯誤が続く。工業的メンタリティーを排し、工業的手法を否定するものがナチュラルである、というところまではよい。だがそこから直接的にはどういうふうに酒を造ればいいのかは導かれない。
結果としてワインはどうなったのか。端的に言えば、亜硫酸無添加、アンフォラ(クヴェヴリでもいいが。要は陶製の甕)使用、白ブドウの醸し発酵、ペットナットという“スタイル”が蔓延している。思想的前提からそれらの個別技法に至る論理的道筋を解説している文字数はないが、丁寧にそのロジックを追っていけば確かにそれらは、自然尊重、工業化以前の農業への回帰、人為的干渉の最小化を具現化するための順当な帰結であると理解できる。問題は、いったん手法・形が出来てしまうと、そのスタイルであればナチュラル、という論理の転倒が起きることである。思想的前提や個々人の主体的創造的関与のないスタイルの採用は、つまりは技術優先の大量生産工業の部品へと自らを貶めることであり、皮肉としか言いようがない。ジョージアのクヴェヴリワイン復活の第一世代たるソリコ・ツァイシュヴィリのかつての作品と、その結果を踏襲しているだけの現在の多くのジョージアワインとの、またオスラヴィアのワイン革命を推進したヨシュコ・グラヴナーの作品とその表層的追随者のワインとの、巨大かつ根本的な差異は、飲めば分かるはずだ。自然と直結するエネルギーと人間の魂の燃焼を感じるか、否か。ソリコやヨシュコのワインは確かにナチュラルだが、スタイルのコピーはただの工業製品でしかない。
新世代日本酒生産者は、往々にしてナチュラルワインが見出したスタイルをさらにまた借りする。ニセ・ナチュラルワインが蔓延させたスタイルの副産物たるバクテリア汚染、揮発酸、酸化をナチュラルだと考える人は、プロや消費者のあいだでむしろ多数派を占める。それらは旧来の工業製品ワインには見られなかったものであり、容易に認識可能な特徴であるがゆえに、アンチ工業ワインのシンボルとして担ぎ上げられるには格好の特徴だ。
残念なことに、大多数の人はブラインドで農薬ワインとオーガニックワインの区別がつかない。環境と人間に配慮している自分が好き、という自己満足のためには、分かる違いを欲することになる。それが技術スタイルの一人歩きと欠陥の肯定という状況を導き、様式のコピーの様式化がゾンビの群れを生み出す。放っておいてもワインになる可能性があるブドウと異なり、放っておいたら何にもならない米で造る日本酒の場合、生産者の技術的洗練度がワイン以上に恐ろしく高いがゆえに、様式のコピーの様式化など容易である。だから問題はジョージア等よりはるかに深刻なのだ。この状況を、「ボードリヤール的シュミラークル消費の典型。リファレンスたるオリジナルなき幻の自動的再生産構造。いかにも現代」と冷たく言い放つのは容易だとしても、これは自然の保全と人間の生存に直接的に関わる事柄であり、傍観者的立場は許されない。
我々はもう一度スタイル以前の本義に立ち返る必要がある。そこで考えるべきはビオディナミであり、その主導者のひとりにして生産者グループ『ルネサンス・デ・ザペラシオン』を立ち上げたニコラ・ジョリーの主張である。ビオディナミは、多くの人が勘違いしているような、オーガニックの厳格バージョンではない。そのひとつの中心思想は、ある固有の土地の内部における閉鎖代謝系的農業、つまり外来異物に依存しない農業である。そしてニコラ・ジョリーの主張とは、真実のアペラシオンの表現を目的とせよ、だ。これを日本酒に当てはめればよい。すなわち、ビオディナミ的考えを単純化して実施項目に落とし込むなら、その土地の自社圃場(ないし長期契約圃場)でのオーガニック栽培、その土地固有品種の選択、その土地の水の選択、自社培養酵母の選択、そしてその土地の人間による仕込み、である。
ニコラ・ジョリーの考えを落とし込むなら、上記ビオディナミ的実践を前提として、お酒のよしあしの基準を、その土地らしいか否か、そしてその目的のためにどれほどの情熱をもって仕事をしたか、に置け、ということだ。ナチュラルであるとは、人間の関与のない手付かずの大自然を意味しない。人間にとってナチュラルとは人間を取り込んだ自然の真善美がそこにあるということだ。日本人はそれを風土として認識し、尊重してきた。その意識を再確認し、その土地らしさ(人間的文化伝統を含む)にいかに誠実であるか否かが問われねばならない。そして言うまでもなく、優れた新世代の日本酒は、既にその方向に正しく向かっている。目的なき手段の遊びの時間はそろそろ終わりだ。
田中克幸(たなか・かつゆき)
ワインと食の評論家、ワイナリーやレストランのコンサルタント。いくつかのワイン雑誌では創刊時の主筆ないし執筆主幹。ワイン教室「日本橋浜町ワインサロン」主宰。文京学院大学ではワイン文化論を教える。フランスのジェラール・ベルトランやドイツのギズラー、グスタフスホフ、新潟県のフェルミエ、滋賀県の松瀬酒造等でビオディナミ応用醸造の助言・指導を行う。田中式ワインの最新作は、ジェラール・ベルトランのフランス最高価格ロゼワイン、「クロ・デュ・タンプル」。
文/ 田中克幸 絵/上村菜々子