フランスでの独立を経て日本進出 Restaurant TOYO


フランス料理発パリの和食経由
そして、「パリジャン料理」へ

今から約10年前、日本人が本場フランスでフランス料理の店を「オーナーシェフ」として出店するケースはまだ珍しかった。そんななか先駆けとなったのが、中山豊光さんだ。2009年に「Restaurant TOYO」をオープン。9周年を迎える今年、晴れて日本へ進出した。パリでの奮闘から東京進出まで、そして2店舗を展開するからこそ描ける未来について聞いた。 

後進のための受け皿作りを念願の日本進出で叶える

2009年のオープン以来、常連から愛され続け、予約が取りづらい店としてすっかりパリに定着した「Restaurant TOYO」。オーナーシェフの中山豊光さんは、今年3月、かねての夢だった日本への進出を果たした。それが、「Restaurant TOYO Tokyo」だ。以前から日本への出店オファーはあったというが、今回、中山さんが決心したのはなぜだろう。

「大きなきっかけは、2015年に起きた、パリ同時多発テロです。あの時から、レストランのオーナーシェフとしてできることを考え始めました。と同時に、うちを卒業した子たちが独立する時期を迎え、今後は自分が何かするというよりは、みんなで力を合わせてお店を作っていくのがいいんじゃないかと思って」。後進の受け皿となるお店を。そのためにも東京がいい――中山さんの中で芽生えた思いと、日比谷出店の話がベストなタイミングで出合った。緑豊かな日比谷公園に面した立地も気に入った。

フランスの店は、パリ6区。多くの芸術家が眠るモンパルナス墓地と、パリ市内で最大級のリュクサンブール公園の中間辺りに位置する。「日比谷は歴史と文化の街であり、パリ店があるのも画家や作家が多く住む地区。環境が似た点もよかった」。そんなパリ店は、市内中を歩き回り、自らの足で探し出した物件。しかし、そこに至るまでの壁は厚く、高かった。

お抱えシェフで身についた「瞬発力」と「美意識」

そもそも、9年前、中山さんが自分の店を持とうとした際、日本人のオーナーシェフはパリにはほとんどいなかった。出店したい場所を見つけても、日本人であることがネックとなり、手が届かないこともあったという。ようやく物件を押さえ、なんとか開店にこぎつけるも、最初はお客さまが入らなかった。
「フランス人経営者で日本人シェフ、という形ならすんなり受け入れられたのでしょう。ところが、突然よく知らない日本人オーナーシェフが開店したのですから無理もありません」と当時を振り返る中山さん。連日満席の現在ではもはや笑い話だが、オープン当初は、日本人シェフにとってまだまだ厳しい時代だったのだ。

「その時、賢三さんが広報をつけようか? と言ってくれたんですが、お断りしました」。中山さんの言う「賢三さん」とは、世界的なファッションデザイナー、髙田賢三さんのこと。独立前に、世界中のセレブリティが集う髙田さんのパリの邸宅で、お抱えシェフを務めていた。「賢三さんがおすすめするお店としてではなく、味で評価されたかったので」ときっぱり。気概に満ちたスタートだった。

自分の力でフランスに立ちたい。
だから「オーナーシェフ」というスタイルを貫いた。

もちろん、7年にも及ぶ髙田邸での経験で体得したことは数多くある。なかでも、独立後の中山さんの皿に現れているのは、「瞬発力」と「美意識」だろう。世界中から訪れるゲストは、国籍、宗教、体調、好みなど、すべてがバラバラ。ある日は船の上で何百人分も作ったかと思えば、別の日にはたった数人のために懐石料理を振る舞う。直前になっての時間や人数の変更もザラ。まるで一夜限りのライブのように、とにかく柔軟に、臨機応変にゲストの要望の先を読み、ベストを尽くした。こうして、料理の腕の瞬発力は大いに増強し、お客さまのリクエストに寄り添う現在のカウンタースタイルを支えている。

さらに、「世界のKENZO」邸で中山さんが吸収したのは、身近に触れた美のエッセンスだった。「まるでホテルのような大邸宅内のあちこちに、賢三さん自ら花を活けるのですが、枝ものや一輪挿しなどをポイントであしらった、見る者をハッとさせるような活け方でした」。その時培われた美意識は、皿の余白を活かした中山さんの料理の盛り付けの軸となっている。

アミューズ パースニップ、石川芋、そら豆
旬の国産野菜をシンプルに提供するアミューズ。パースニップはコンフィにし、外側をカリッ、内側をとろりとした食感に。ふかした石川芋は、旨味たっぷりの24カ月熟成させたミモレットをかけて。あぶったそら豆は、ピエモンテの無濾過オリーブオイルや塩を付けて。

アイデンティティを自覚
だからこそ作れるオリジナル料理

しばしば「和と洋の折衷」と形容される、中山さんの料理。しかし、ご本人は「特に和を意識していない」という。「ジャンルがわからないから星がつけられない、とミシュランの人から言われたことがあります(笑)。ある本では、“キュイジーヌ・パリジャン(パリの料理)〟と表現されました」。神戸のフランス料理店「ジャン・ムーラン」で料理人としてのキャリアをスタートさせ、1994年に渡仏した。

ロワールのオーベルジュで修業していたある時、フランス人から「君たち日本人のスペシャリテは何?」と聞かれ、自らのアイデンティティと向き合うことになる。「技術的にはフランス人に負けていなくても、おばあちゃんのルセットを持ち出されたら勝てない。日本人として、もう一度日本料理を学び直そうと思いました」。96年からパリの高級日本料理店「伊勢」に入り、ここで、「和」の要素を身につけた。素朴で穏やかな人柄の中山さんだが、こと料理に関する探究心は貪欲なのだ。

「日本料理がフランス料理と大きく異なるのは、つねに手元がきれいなところ。いったんきれいにしてから次の作業に入る。割烹のように、お客さんの目の前で料理できるのは、日本料理ならでは」。パリ店も東京店も、お客さんに手元が見えるカウンターキッチンを導入しているのは、「伊勢」で身についた自信によるものだ。今回、東京店のシェフに抜擢した大森雄哉さんも、所作の美しさはお墨付き。「彼とは、2010年にパリ店に研修しにきてもらって以来の縁。日本進出は、料理の腕に加えて人前で仕事ができる所作も習得した、彼の存在ありきです」。

パリ店のエントランス。「Restaurant TOYO Tokyo」にも飾られているシェフの肖像画は、いずれもファッションデザイナーの髙田賢三さんが描いたもの。東京店のオープニングにも髙田さんはお祝いに駆けつけており、中山さんとの親密さが伝わってきた。

日本人としての自覚と向き合い、
掴んだ答えが海外でのブレイクスルーに。

では、パリ店、東京店の2店舗を持った今、中山さんの味と店が目指す方向とは?

「自分にとって、どんなジャンルの料理も味の要素が少ないことがおいしさの共通項。そのためには使う調味料を減らしていきたい」。味の要素を削ぎ落とすことは、素材が持つ味の核心に迫ること。実際、中山さんと大森さんで練った東京店のこの日のアミューズは、蒸したりコンフィにした旬の国産野菜に、24カ月熟成の仏産ミモレットなどを添えたシンプルな一皿。ただし、味気ないわけではない。口に含めばすっと背筋が伸び、これから始まるコースの前に身を清めるような心持ちになる味わいだ。

「店に関しては、パリ店と東京店が競い合って切磋琢磨できるよう、人材交流も始めるつもりです」と進化の青写真を描いている。最後に、これから海外進出を目指すシェフへのアドバイスを求めると、「修業したいと思ったら、店が有名無名か、ビストロかガストロかに関わらず、実際に食べて、この料理を覚えたいという気持ちで臨むべき。自分の舌を信じ、オリジナル料理を目指してほしい」と答えてくれた。さらりと、「僕もまだ進行形です」と付け加える謙虚さも忘れない。髙田賢三さんを始め、パリの常連たちに愛され続ける理由を垣間見た気がした。

Toyomitsu Nakayama 神戸のフランス料理店「ジャン・ムーラン」を経て、94年渡仏。96年、パリの高級日本料理店「伊勢」で働きトップを務める。2002年より世界的デザイナー、髙田賢三氏の専属料理人に。 09年「Restaurant TOYO 」オープン。 18年に「Restaurant TOYO Tokyo」オープン。

浅井直子=取材、文 小寺恵=撮影(「Restaurant TOYO Tokyo」のみ)

本記事は雑誌料理王国2018年6月号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は 2018年6月号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。


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