8月末に公開され、料理人やレストラン関係者の絶大な支持を得ているドキュメンタリー映画「至福のレストラン/三つ星トロワグロ」。4時間もの長尺にもかかわらず「2回観た」というシェフの声も少なくない。それだけ、ガストロノミーレストランの日常、困難、醍醐味がリアルに描かれているのだ。映画の中で、自らの手の内を惜しげもなく見せてくれたミシェル・トロワグロ氏にインタビューした。
「至福のレストラン/三つ星トロワグロ」の監督、フレデリック・ワイズマンと聞いて、ピンとくる人は相当の映画好きかもしれない。
ワイズマン監督は、映画制作に音楽も、ナレーションも一切使わない。目の前にある“ありのまま”を淡々とフイルムに収め、対象となる人物や場所のドラマを赤裸々に映しつづけてきた最も偉大なドキュメンタリー作家の一人といわれる人物だ。
過去の作品「ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス」や、「ナショナルギャラリー 英国の至宝」などからもわかる通り、取り上げるジャンルはさまざま。いままで多くの“本当の”人生のドラマを撮り続けてきた監督が、90歳にして心を大きく動かされたのがレストラン「トロワグロ」での体験だった。
さまざまなことを見尽くしてきたであろうワイズマンの心を震わせたのは、最高の料理を出すための戦場のようなレストランの現場。しかし、最高のサービス、料理といった、“現代のレストランの最高峰”のカタチだけではない。
彼が強烈に興味を惹かれたのは、第四代目となるセザール・トロワグロまで脈々と受け継がれているファミリービジネスの中の“料理人”としての逃れられない“宿命”であり、“苦悩”であり、“使命”であり“喜び”であった。代々偉大なるレストランを受け継ぐファミリーの嘘偽りない日常だったのだ。
そこには、すべての料理人たちが味わうであろう、光と影があった。レストランを訪れるゲストの幸せな空気感の裏にある、さまざまな苦悩も隠すことなく映し出されている。
4時間にも及ぶ映画のなかで淡々と浮き上がってくるのは、よりよい食材を求め、生産者を理解するために学ぶ終わりのない日々や、若いスタッフの教育、物価の高騰、従業員同士のトラブルなどの悩み、ファミリーだからこそ起きてしまう親子感の感情の軋轢。
どんな偉大なレストランであろうとも、そうした泥臭い日々の積み重ねの上に今があるのだとあらためて知ることができる。
「トロワグロ」の歴史は1930年、ロアンヌ市で始まった。ジャン・バティスト・トロワグロと妻のマリー・トロワグロは、フランス中央部のブルゴーニュ=フランシュ=コンテのシャロン=シュル=ソーヌで経営していたカフェを離れて、ロアンヌに移り住み「ホテル・デ・プラタヌ」を引き継いだ。ホテルは大成功を収め、料理とワインセラーで有名な「ホテル・モデルヌ」となる。
この地元で評判の高かったレストランを、マキシムやルキャ・カルトンといった一流レストランで修業を積んだふたりの息子、ジャンとピエールが継ぎ二人三脚で店を運営していく。ピエールは、日本のマキシム・ド・パリの初代料理長にもなり、日本でさまざまなことを吸収し、自身の料理に反映した。その経験は自身の料理に変革を起こし、“現代フランス料理”の先鋒としてさらに注目されていく。こうした流れのなか1968年にミシュランガイド三ッ星を獲得。その後三代目のミッシェルが継ぎ、四代目のセザールが仕切る現在にいたるまで、世代交代しながらも56年間ミシュランガイドの三ッ星を取り続けている、フランスでも稀有なレストランだ。
現在、レストラン「トロワグロ」のシェフは四代目となる長男のセザールが中心となって切り盛りし、次男のレオはオーベルジュ「コリーヌ・ド・コロンビエ」の料理長として活躍している。ミシェルはセザールとともに「トロワグロ」で若手の指導にあたり、妻のマリー=ピエールは、オーベルジュやレストランのサービス面やインテリアなどの全体を見ている。
この映画の制作について、ミッシェル・トロワグロは「ワイズマンさんからの映画を撮らせてほしい、と手紙をいただいたのは2020年6月。彼が食事をしにきてくれた1ヶ月後のことでした。すぐにOKをしたわけではありません。私たちのレストランの映画を撮影するということについては家族全員で慎重に検討しました。このプロジェクトをやってみようと思えたのはワイズマン氏の過去のドキュメントを見て、彼のテーマに興味を持ったからです。彼の題材は人間が集まっている文化的な場所ですが、その仕組みだけでなく、人間にスポットをあたえているのが素晴らしいと思いました」と振り返る。
けれど、懸念点もあったという。それは2ヶ月にも及ぶ撮影期間。しかし、ワイズマンは“絶対に邪魔をしない。あなたたちに何も感じさせないように撮影をします”と約束をしたため、撮影に協力することにしたのだという。
撮影は2022年4月から始まった。実際ワイズマンはトロワグロファミリーをはじめ、レストランのスタッフたちが“撮影されている”ということを忘れてしまうほど、気配を消した。クルーはカメラマンと音声スタッフそしてワイズマンの三人のみ。2ヶ月間、空気のように彼らの日常に溶け込み、途中質問をして流れを中断することは一回もなかったという。
映画は、時に見ているものがとまどうほどに生々しい現場の苦悩を映し出す。そうした内容に“ここは撮らないでほしい”など依頼はしなかったかという質問に、ミッシェルは笑いながら答えてくれた。
「確かに、デリケートなシーンも映っているかもしれません。しかしこれは他のレストランでも日常的に問題になったり悩んでいたりすることだと思います。毎日楽しいことばかり話している店なんてないでしょう。“ここを撮影しないでほしい”というリクエストをするという以前に、ワイズマンさんが気配を消しているので撮影されていることをすっかり忘れていました。つまり、映画になって初めて彼に“見つかってしまった”という感じかもしれません」
たとえば映画では、どんどん値上がりをするワインについてミッシェルとセザール、ソムリエールが深刻に話し合うシーンが映っている。「マダム・ルロワのワインはあと何本在庫がある? 今年はいくらで手に入る?」と質問するミッシェルにソムリエが答えると「そうか、ずいぶん値上がりしているな」とミッシェルが頭を抱える。
ワインの高騰や食材の高騰に悩むのは、あたりまえだがトップレストランであっても同様なのだ。
そんな感想を伝えると、「ワインの高騰だけではありません。人件費、食材費、いろいろな費用が上がっていることは多くの飲食店にとっての悩みでしょう」と率直に答えてくれた。
「『トロワグロ』ではその分価格を上げざるを得ませんでした。ありがたいことにお客様が値上げを受け入れてくれました。ワイン愛好家憧れのワインは高すぎて一部の富裕層でしか飲めない価格になってしまいましたね」
しかしこうした事態をミッシェルはポジティブに捉える。「ワインの世界も幅が広がっています。誠実にブドウ作りをしている若いドメーヌが作る素晴らしいワインが、手軽な価格で新星のごとく登場してきています。昔は平凡なものしかなかったけれど、最近は違う。つまりお金を無駄遣いすることなく美味しいワインを飲めるようになった。低価格でも個性的で素敵なデザインの洋服があるみたいにね」。
もう知れ渡っているものではなく、世界中の人たちが新しい宝物のようなワインを発見することに情熱を注いでいる傾向は実際にあるという。そうした彼らが満足するような新しいワインをしっかり見つけることもトップレストランの使命なのだと話す。
また、別のシーンではスタッフ同士の“人種差別”的ハラスメントについてみんなで話し合う場面も映し出されていた。
人の問題はどのレストランでも悩みがつきない。そんな人の問題を偉大なるシェフはどのように解決しているのだろうか?
「これは、大変難しい問題。『トロワグロ』には70人の従業員がいます。僕は全員の名前と顔知っているわけではないし、彼らが仕事以外にどんな人間でどんな行動をしているのかを知るすべもありません。だから、まず意識しているのは自分がさまざまな場所に登場して会話をし、彼らを気に掛けることです」と話す。
絶対に避けるべきことは人種や性別などによる社会的な差別。
大切なのは上に立つものとして自分たちがモデルになるように心がけること。そして、目の前で起きたことに目を閉じないで、すぐにアクションしてやりすごさないことだそうだ。実際に映画でもスタッフの間で心無い言葉で傷ついた人のことを話題にし、同じようなことが繰り返されないためにもミッシェルの妻、マリー=ピエールが間にたち、従業員同士でどう解決するか話し合うシーンがあった。
キッチンの現場で下ごしらえをきちんとできないスタッフにも、ただ怒るだけではなく、きちんとその後にミッシェルが呼び出し、「ラルースフランス料理辞典」を見せながら、「わからないときには、これを読みなさい」と指導する場面もあった。
こうした考え方や行動は、「トロワグロ」が50年以上もフランスのレストランシーンにおいてトップのレストランに君臨し続ける理由の一つなのだと深く納得する。
さらに、ファミリービジネスとしてぶつかる壁が、家族だからこそのコミュニケーションの難しさだろう。
映画のなかでは、ロニヨンの料理についてミシェルとセザールの意見が食い違い、平行線で長い間意見を言い合う場面がある。
いつも、一皿の料理を作り上げるのにあれだけの熱量をもって親子で話し合って決めるのか?とミッシェルに聞くと意外な答えが返ってきた。
「実は今、私とセザールでアイデアを交換するというやり方をしていません。あの映画を見て“これはいけない”と自分の姿にひいてしまいました(笑)。今は息子たちに創作する決定権を譲りました。あのシーンは25分間あります。カタチになるかわからない不安をかかえ、やりたいことはわかっているのに最終形が見えないものへの不安や迷いを映した真実の時間です」と照れくさそうに話してくれた。
一つの作品を生み出すための苦悩は料理人だけではない。映画も音楽も演劇も、納得するところまでに辿り着くために必ず通る道であるはずだ。ミッシェル自身は一つの料理を作るのに1ヶ月くらいかかることはあたりまえなのだという。
「どう食材をカットするのか、風味や味はどう組み合わせるのか。考えることに近道はなく、悩み、苦しみ道なき道を分け入って冒険していくような時間は長いです。セザールも今、そうした冒険をして料理を作っています」。
ミッシェル自身、偉大なる父ピエール・トロワグロから店を受け継いでから、さまざまな苦悩があった。実際ロアンヌ駅の目の前のトロワグロ家が80年以上過ごしてきた家を閉じ、ウーシェに今の「トロワグロ」をオープンしたことは、寂しさと嬉しさの二つの感情が行き来したという。
優しい笑顔を交えながら話すミッシェルからは微塵も感じないが、その両肩には 祖父と叔父、そして父が積み上げてきた歴史や名声は、知らず知らずに重くのしかかっていたのかもしれない。
三代目としてトロワグロファミリーを受け継いだミッシェルにとって、自身が見つけたウーシェという土地は特別な場所なのだと話す。
「ウーシェは、私を自由にしてくれました。こうした感情を自分自身まったく予想していませんでした。この土地は妻のマリー=ピエールと、子供たちの未来が見えたから買いました。私は息子と同じように大きなものを受け継いだ。そしてセザールは私が作ったものを加えたさらに大きなものを受け継がなければならないです。父ピエールが自分にしてくれたことを見本にして、息子に対峙しています。今はメゾンのステイタスや社会的な役割も大きくなり私が現役のころより難しい時代です。しかしセザールは勇気をもって引き受けてくれた。彼には才能があり、冒険を続けようというやる気に満ちています」。
フランスでも、長く世界的な評価を保ち続けている家族経営のレストランは多くない。難しい継承をしていける秘密を聞くと、“人を愛すること”とまっすぐに答えてくれたミッシェル。
世界最高のレストランの“ありのまま”の日常に迷い込んだような映画からは、観客を引き込む等身大の喜びや悩み、そしてトロワグロファミリーが料理に対して向き合う愛とプロフェッショナルの矜持を感じることができるだろう。
4時間の映画を見ていると、いつしか自分もレストランの現場に一緒にいるような気持ちになる。見終わるころには、ワイズマンをはじめ、誰しもが一度訪れたら恋に落ちてしまう「トロワグロ」に足を運びたくなるに違いない。
「至福のレストラン/三つ星トロワグロ」
8/23(金)よりBunkamuraル・シネマ 渋谷宮下、シネスイッチ銀座ほか全国順次公開中
公式サイト
https://www.shifuku-troisgros.com/
公式X
https://twitter.com/troisgros_movie
Text:山路美佐
食と旅の編集者。出版社でラグジュアリー誌の食・旅・カルチャーの編集者として勤務後、グルメ検索サイト「ヒトサラ」の副編集長に。現在はフリーランスでレストラン、ホテル、工芸、旅など、食や旅の業界の橋渡しとなる“編集者”として。年の半分は国内外を飛び回り多数の雑誌・メディアに寄稿。自社ではホテルやレストラン、自治体のアドバイザリー、商品開発、動画制作なども手掛ける。編著に『広東名菜 赤坂璃宮 譚 彦明の味』。