1994年に創刊して以来、文化としての「食」を見つめ、 料理人が真に求める情報をいち早く伝える情報誌をめざしてきた『料理王国』。
これまで料理界を牽引する一流シェフや、これからのレストランを担う気鋭の若手、厨房の外で「食」に尽力される方など、多くの方たちにご登場いただいてきた。
今年で25周年、今号で300号。節目となるこの号では、雑誌スタート時から縁の深いおふたりの対談が実現した。
「青柳」小山裕久さんと、「リストランテ アルポルト」の片岡護さん。『料理王国』発行のきっかけを作ったともいえるおふたりに、その誕生秘話と、それからの25年について伺った。
――300号という節目の号に創刊時から『料理王国』とご縁の深いおふたりにご登場いただくことができました、ありがとうございます。
小山:25周年ですか。早いですよね。
片岡:早いですね。(創刊号に登場しているシェフを見ながら)みんな若いなあ。いくつだったのかな。
小山:片岡さんも私も、創刊に関わった関係者も、当時45歳。皆で盛り上げてこの雑誌作りをスタートさせましたね。きっかけは私が言ったようなところがあるんです。魯山人の『春夏秋冬料理王国』が愛読書なものですから、そんな世界観の雑誌があったらいいなと。「料理の王国」には料理人だけではなくて、食べ手もいるし、食材の生産者もいるし、器の作家もいる。そのすべての人たちの視点で食を捉えた雑誌、食べ手が求めているものに応える雑誌を作ろうよと。
片岡:『料理王国』ができたときは、本当に画期的な雑誌だと思いましたよ。あの頃はこういう雑誌はなかったからね。ですから私もすぐに定期購読を申し込みました。私が定期購読の第1号だったんですよ。小山さんは中心になって『料理王国』の制作を推し進め、自らも誌面に出ていらっしゃいますが、私はそれを応援して盛り立てた、という感じです。
小山:印刷のために地元の徳島の紙屋で紙を手配して、知り合いの出版社に取次を紹介してもらって。それが立ち上がりの頃の話ですね。私が料理をお教えしていた「茶美会」という裏千家の会に、当時を代表するグラフィックデザイナーの田中一光先生が入られていて、『料理王国』の題字とデザインをお願いしました。「王国」という名前はよかったと思っています。料理人よりも王様(お客さま)のための雑誌というか、お客さまも料理人も生産者も、皆がいる“王国”で、これからの食の事を考えていこう、と。
――小山さんは創刊号の記事「『味の風』パリに吹く」にご登場いただいています。
小山:1993年にパリの「プラザ・ホテル」で1週間行ったフェアを記事にしてもらいました。このフェアのきっかけは、1992年にパリで初めて開いた日本料理技術講習会です。日本からは包丁と醤油しか持って行かず、パリで紛れもなく本物の日本料理をお出しします、という講習会。誰も来なかったらどうしようと思っていましたが、ポール・ボキューズをはじめ、ミシュランの星を持つシェフなど86人が来場してくれました。
この企画を考えたのは、敵討ちというか(笑)。45年前に「吉兆」へ修業に入ったときは、店のマッチ箱に「世界の名物日本料理」と書いてあって、田舎の料理屋の息子だった私は「日本料理ってそんなにすごいんや!」と感動したんです。しかし修業を積み経験を積むにつれて、実際はそれほど世界の名物でもないなと。さらに当時のフランスでは、「日本から修行に来た料理人は料理や店の名前、皿、なんでもフランスのものを真似る。けれど、フランス料理の料理人だから日本人でも日本料理のことは教えることができない。これでは文化の一方通行だ」と言われているから、日本料理の小山さんにどうにかしてしてほしいと頼まれました。それで、日本料理の実力を見せつけてやろうとフランスに行ったわけです。
そこで、ジョエル・ロブションやアラン・デュカス、「ランブロワジー」のベルナール・パコーと友達になりました。パコーは自分の店で一緒に仕事をしないかと誘ってくれて。「ランブロワジー」で1日、一緒に仕事をしました。「ランブロワジー」は朝冷蔵庫を開けると中には何もない。作り置きがないんです。「ランブロワジーは今日がオープンだ」と言ってその日の仕事を始めるんですよ。食材を持って来る業者には店のケーキを持たせたり。かっこいい、悔しいなと思いましたね。
――それ以来、小山さんは毎年欠かさずパリでの講習会を行っていらっしゃいますね。
小山:初めてフランスに行った時に感じたことは、フランス料理はロジックがしっかりしていて合理主義だということ。「吉兆」での修業時代、給料が1万円の頃に6千円のエスコフィエの本を読んで勉強しましたが、実際に向こうへ行って、ますます、フランス料理の世界がいかによくできているかということを実感しました。「デ」や「コンカッセ」のように共通の言葉があるので、どこの店へ移っても修業ができる。共通のルール、共通の言葉があるから発展してきたんだと思うんです。でも、日本料理には共通の言語がない。
片岡:イタリア料理にも共通言語はないですよ。イタリア料理は非常に大雑把。野菜を何ミリに切れなんて言ったらイタリア料理じゃなくなりますからね。適当に切りなさい、と。
小山:そうですね。イタリア料理はそれでいいと思うんですよ。でも日本料理は懐石料理のように非常に精緻なものがあるのに、共通の言語がない。
片岡:技術的にはフランス料理に似ているのに、共通言語がないのはイタリア料理と同じということだね。
小山:そう、日本ではほかの店の厨房に行くと野菜の切り方ひとつでも呼び方が違い、ルールも違うので共有できない。それで、日本料理にも共通言語を作りたいと思い、初めてフランスに行ったあの時から研究を続けています。
この研究で大事なことは、料理人のためだけではなくて、食べ手や生産者のことも考えて日本料理全体を体系化してきちんと後世に残すということです。東大の先生にも言われたんですよ、「ベートーベンが没後150年以上経ってもまだその作品が演奏されるのは、楽譜があるから。小山さんが料理の楽譜を発明したら、あらゆる料理人の料理が後世で再現できるようになりますよ」と。楽譜があれば学問として丁々発止のやり取りもできるし、会話もできる。未来に向けて、若い子がそれを見て勉強できる。
片岡:楽譜という考え方はいいですね。私は『料理王国』創刊の頃はといえば、独立12年目の年でした。それから25年、今年で独立37年です。
小山:私は25年前は、まだ東京には店がなかった頃ですね。
片岡:そうでしたね。小山さんのお店に初めて行ったのは徳島の調理師専門学校に講師で呼ばれたときですかね。そこで出していただいたお弁当にボウゼのお寿司が入っていて。それがめちゃくちゃおいしかった。東京から1週間に1回くらいお店に通うお客さまもいましたね。
小山:本当は僕、料理人になるつもりはなかったんです。F1のエンジンを作りたかったんですよ。
片岡:そうなんだ。学生時代は空手をやっていましたよね。
小山:「吉兆」時代は『空手バカ一代』という漫画が始まったこともあって、修業仲間や先輩に空手を教えてくれと言われました。それで、寮で空手を教えたことなどもありましたね。
片岡:そんなことやってたんだ(笑)。それ、漫画になるね。
僕はもともとデザイナーになりたかったんだけど、大学受験で失敗しちゃった。それで声をかけていただいた総領事に同行してミラノの総領事館でコックとして働くことになって。それでその前に「田村」に研修に行ったんです。ミラノはすごく大変だったけど総領事がとてもいい人で、怒る時は怒るんだけど褒める時は褒める。そうやって僕を育ててくれたんです。小山さんも僕もここまでいろいろなことがあったけれど、苦労と思ったことはありませんでしたね。だから続けてこられた。苦労と思うと感謝もなくなる。今思えば楽しくも思える、修業のひとつのようなものでしたね。
小山:そうですね。私がここまでこられたのも、『料理王国』や、「吉兆」の徳岡孝二さん、仲間たちやロブション、デュカス、パコーなどとの出会いがあったおかげです。いろんな人のおかげで今の私がいる。そして私の元で修業した料理人たちも活躍している。このことを後世に留めておきたいですね。この雑誌も25年続いているのは素晴らしいことだと思っています。最初の精神が間違っていなかったのかなと。
片岡:『料理王国』は僕たち料理人とのつながりもあるし、料理人たちを支えてきていますよね。シェフ交流会や日本の銘品の品評会もやったりしている。さまざまな変遷を経てきましたが、ここまで続いたことは素晴らしいです。
小山:自分の子供のような、うれしい気持ちもありますね。こうやって片岡さんとまた、『料理王国』について語ることができて、うれしかったです。ぜひこれからも『料理王国』は続けていっていただきたいですね。
片岡:そうですね。僕たちも協力していきたいし、今後ともよろしくお願いします。
河﨑志乃=取材、文 林 輝彦=撮影
text by Shino Kawasaki photos by Teruhiko Hayashi