東京・四谷三丁目の駅近く。かつての花街の風情を宿す荒木町の一隅に、食通なら誰もが知る名店「たまる」がある。主人の御子柴暁己さんは、先代が始めたこの店の調理場に立ち、冬はアンコウ、夏はアナゴと向き合いながら古稀を越えた。「特別なことは何もしていない」と言う御子柴さんだが、笑顔の奥には、明治生まれの一徹な父親の頑固な職人気質と情熱が、脈々と生きている。
「たまる」は、10人も座ればいっぱいになる小ぢんまりした料理屋だ。夫婦ふたりで切り盛りする、どこにでもありそうな小さな店。しかしその暖簾は、「たまる」を愛してやまない
いったいどこが違うのかーー。 しっとりした身、肉厚の胃袋、弾力ある濃厚な胆、独特の歯ざわりのえら鰓。とにかく「すべてが違う」。甘味と塩味、辛味がほどよく調和する汁(割下)も、これ見よがしの仕掛けはないのに、驚くほどに澄んだ味わいで、臓腑にしみる。この瞬間の幸せが忘れられず、人はこの路地裏に足を運ぶのだ。御子柴さんとともに店を切り盛りする妻の尚子さんは、それを「たまる流」と表現する。
鍋と店の取材を申し込んでくるメディアは少なくないが、御子柴さんはそれをずっと拒み続けている。「下処理の仕方からして、他とはまったく違うので、『ここをこうすれば』と簡単には言えない。私たちがやっていることは、おそらく素人にはできないし、また、プロの料理人が『たまる流』を取り入れるなら、今までのやり方を根本から変えることになる。店にはそれぞれの歴史と伝統があるのだから、いろんな味のアンコウ鍋があってもいいと思う」「御子柴さんの鍋は総合芸術のようなもの」と常連のひとりは言う。何かひとつが突出していても、欠けていても具合が悪い。「すべてを大切にしてバランスを重んじる。これができればおいしい鍋になりますよ」。
この10月、例年通りに「たまる」は「衣更え」をした。1年のうち4月から9月まではアナゴ専門、10月から3月まではアンコウ専門の料理屋となるからだ。これは先代である父親が店を出した時から変わらない。「霜月あんこう絵に描いても舐めろ」などといわれ、アンコウ鍋は江戸時代、元禄年間あたりから楽しまれてきた江戸の味。「親父はそれが好きだったんでしょうね」。料理人を目指して長野から上京した先代 は、最初フランス料理店に修業に入り、ひと通りの技術は会得したが、その関心は和食へと移っていった。「家ではフランス料理も作ってくれましたよ。技術が確かなだけでなく発想も豊かな人でしたから、何を作らせても旨い。工夫して自分の味を作り上げる。『たまる』のアンコウ鍋も、下処理から味付けまで、親父が独自に考え出したものです」
ただし先代は、技術や調理法を言葉や書き物で伝えるタイプではなかったため、息子は、それをひとつひとつ真似、見続けながら身体で覚えた。そんな先代が、唯一、言葉にして叩き込もうとしたのが、道具の扱い方、使い方だった。
「鍋の洗い方が雑だ、包丁の研ぎ方がなってないと、よく怒鳴られました。今どき、そういう考え方は古臭いというシェフもいるでしょう。でも、基本をすっ飛ばして旨い料理は作れないと思うようになりました」
毎朝、築地から届くアンコウについては、「ものがよければ、特に産地は指定しない」。最近気に入っているのは北海道余市で上がったアンコウだという。内臓がつやつやとしていて、大きな肝の弾力は触れる指を弾くほどだ。重量7キロほどのアンコウを厨房につるすと、御子柴さんは5分とかけずに捌いてしまう。気合の入った包丁捌きには迷いがなく、見ていて潔く、美しい。
「親父の包丁捌きは本当にきれいだった。いつかそうなりたいと思い続け、それを見続けてきたんです。ただ、数年前から、包丁の入れ方だけは、俺の方が親父よりきれいじゃないかなあ、と思うんですよ」
それは、親父という「手本」があったからだと思う。親父がどこに、どの角度で包丁を入れるのか、息子は黙ってじっと見続けたのだ。
「一子相伝と言ったって、その程度の他愛もないことなんですよ」と、まもなく73歳になる名人がはにかむ。相伝されたのは、たぶん包丁の角度ではない。わずかなことにも真剣に悩み、なんとか乗り越えようと励む精神や姿勢。先達の細かな知恵や工夫を見逃すまいと集中する観察力。謙虚に自分自身を見つめようとする客観性。加えて、朗らかに毎日を生きようとする覚悟のありよう。そうした「目に見えないもの」が、親から子に相伝されたのだ。
その先達が5年前に逝った。時代も変化し、環境も状況も変わってゆく。一番困ったのは、味噌の調達だった。親父は、長野の味噌屋に配合まで指定して味噌を作らせていた。ところが代が替わり、「たまる」特製の味噌を作ってくれる人がいなくなってしまったのだ。御子柴さんは、行く先々で味噌蔵を回り、遠方へは手紙を書いて何十何百という味噌を試食した。そしてようやく「これなら」と思う2種類の味噌に出会い、それを合わせることで、「たまるの味」をつないだのである。
「たまる」では、食材から調味料まで、すべて納得のいく味であることが基本。納得できなければ、納得できるものを探すか、自分で作る。たとえば、アンコウ鍋に入れる焼き豆腐は、最近旨いものがなくなったので、木綿豆腐の水切りを充分にしてから、自分でバーナーで焼いて作る。鍋のだしに入れるトウガラシは、風味や辛味の違う3種のトウガラシを3カ所から取り寄せてブレンドしている。
親父の店に入る、と覚悟を決めるまで、御子柴さんはジャズマンだった。実は飛ぶ鳥落とす売れっ子のミュージシャンだったのだ。だからというわけではないが、親父とは違う料理で勝負しようともがいた時期もあった。「もがく息子の姿を、親父は黙って見ていましたね」。道具の扱いにはうるさいが、料理に対しては何も語らず、ひたすら「その時」を待っていたのだろうか。「いつの頃か、自分で気づくんですね。新しい料理って何なんだ、と」
たとえば『ひらめ昆布〆』。「たまる」の客の大好物だが、それを満足いくひと皿にするまでにも、長い時間がかかった。届くヒラメも毎日違う。結果、2キロ前後の生きたヒラメを捌いて薄手の昆布で巻くようになった。食べ頃は2~3日後だ。「そんなことも、自分の舌で確かめながら決めていくんです」
96歳で逝った先代は、死ぬまで息子の料理を褒めなかった。その先代が可愛がった孫(御子柴さんの長男)が、先日、妻にぽつりと言った。「いろんな店に行くけど、やっぱり『たまる』の料理は旨いわ・・・・・・」親父に言われたような気がして名人の目が潤んだ。客の「旨い」のひと言に救われながら毎日アンコウを捌く。純粋で頑固。無欲で心優しい料理人の姿がそこにある。
アンコウは淡白な身も旨いが、やっぱり内臓や皮、
鍋に欠かせない部位。胃袋の入り口には上下に2カ所、歯のようなものが付いていて、丸呑みした餌が逆流しない仕組みになっている。胃袋から大きな〝獲物〟が出てくるのはそのためだ。
「卵巣」。平らな形状から「ヌノ」と呼ぶこともあるが、「たまる」では、「子ども」という呼び名に決めている。弾力に富んでいるので、口に入れて噛むほど味わい深い食感が楽しめる。
アンコウ鍋に入れたり、蒸して「アンキモ」に調理したりしていただく。「たまる」では、鍋に入れるのはもちろん、さっとゆでてポン酢を添えたり、酒蒸しにしてふるまう。
鍋に入れると、らせんを描くようなカタチが見た目にも楽しい。ただし、下処理には時間がかかる。特にぬめりの強い部分なので、長時間、洗い続けなければならない。
江戸の川柳に、「アンコウは唇ばかり残るなり」というのがある。つまりそれほどに捨てるところのない魚として、江戸時代から庶民に親しまれていたのだ。
荒木町に料亭や料理屋が建ち並んでいた往時を髣髴とさせる風情ある小路。その路地裏で、何十年と変わることなく時代を見つめてきた。「あんこう鍋」とだけ書かれた提灯は、数年使って古びたので今年新調した。
たまる
東京都新宿区荒木町7
03-3357-8820
● 17:30~22:00
● 日休
● 15席
上村久留美=取材、文 吉川忠久=撮影
text by Kurumi Kamimura photos by Tadahisa Yoshikawa
本記事は雑誌料理王国第232号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は第232号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。