黒船がやって来てから、やれ西洋だ、なんだといったところで、とにかく、最初は何もなかったのである。だがそんな時代でも、果敢にフランス料理に挑戦した人たちがいる。そして、彼らを信じ、ひとりでも多くの人にそのおいしさを伝えようと試行錯誤しながら料理を提供し続けたレストランがある。今なお残る「上野精養軒」「富士屋ホテル」そして「東洋軒」の声をうかがいながら、当時の西洋・フランス料理界を紐解いていこう。
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明治16(1883)年、鹿鳴館が開館。日本の西洋化された文化を外国人に知らしめ、安政以来の不平等条約を改正するのが目的だった。当時のメニューを見た後世の料理人が「これほどのメニューは西洋人しか書けなかったのではないか」と話したというが、実際は藤田源吉、渡辺謙吉など日本人料理人たちによるものだった。レベルは格段に進歩していたのだ。
渡辺謙吉はオランダ大使館、鹿鳴館、その後の華族会館料理長を経て、明治32(または33)年に「中央亭」を開業。技術に加えフランス語、英語に堪能で、多くの料理人の高い声望を得ていた。その少し後、明治39(1906)年には三田の「今福」という牛鍋屋の横に、伊藤博文など歴代官僚のすすめを受けて「東洋軒」が開業。創業者の伊籐耕之進は優れた経営者であり、中央亭などから料理人をスカウトし、料理の質を高めていった。
この時代、西洋料理を扱う店は東京に限ると40軒以上あったのだが、特に高い名声を得ていたベスト5は「精養軒」「富士見軒」(明治9年創業)「宝亭」(明治16年創業)「中央亭」「東洋軒」。当時はまだ、来客料理より出張料理の比重が高く、政府官邸や陸海軍官邸など、得意先に出張料理を提供していた。さらに宮内省主催の大きな催しには5店すべてが呼ばれ、腕を競い合ったという。かつて東洋軒で総料理長を務めた堀田大さんは「先代の話では、仕出し用の荷車に下ごしらえした材料はもちろん、調理道具やカトラリー、皿、コンロやストーブを積んで運ぶこともあったようです。また、同じメニューでも店によって違いがあり、東洋軒の冷製は、上がけのコンソメゼリーの色が深くて味も濃いとか、それぞれに特徴があり、プライドをかけて競い合っていたようです」。明治の末から大正時代にかけて急速に進化したフランス料理は、ライバル同士の切磋琢磨がカギだったのかもしれない。
在留外国人に習ったフランス料理に日本人が磨きをかけていた明治の終わり頃。料理人自らがフランスに行って学ぶことは、もはや時間の問題だった。精養軒の西尾益吉、東洋軒の林玉三郎などが海を渡り、当時最新のエスコフィエのフランス料理を学んで大正初期に帰国。以後エスコフィエの料理は日本のフランス料理の考え方の基盤となっていく。
三田の東洋軒に勤めていた名匠・秋山徳蔵がヨーロッパへ向かったのは明治42(1909)年20歳の頃。シベリア鉄道経由だった。「オテル・マジェスティック」などで約4年間修業し帰国、宮内省に入る。秋山はこの修業について、自著『味』(中公文庫)のなかで、「コック場の様子というものは、どこも同じである。切る、煮る、焼く、揚げる、一応はどこでも似たりよったりである。しかし、そのなかに、いうにいわれぬ、教えるにも教えられぬ、玄妙な境地があって、修業というのは、つまり、その境地を探り出し、身につけることにほかならない」と語っている。大正初期から昭和にかけて、日本のフランス料理は、秋山徳蔵をリーダーにようやく花開く。
宮内省主催の園遊会や陸軍の特別大演習など大規模な催しには、秋山が書いたメニューをトップ5の店の名料理人、たとえば精養軒の西尾益吉、鈴本敏夫、東洋軒の大平茂左衛門などが各店で指揮しながら秋山の理想に応えるべくつくっていた。他店に負けないものをと皆必死だった。特に精養軒の鈴本敏夫はこの時代の牽引者といわれている。鈴本は大正9(1920)年『仏蘭西料理献立書及調理法解説』を書いた。この本は、当時フランス料理を志す者のほとんどが持っていたようだ。大正12(1923)年には秋山が『仏蘭西料理全集』を出版。日本人の持つ高度なフランス料理の知識が次々と書物にまとめられる時代が訪れた。
大正12年9月1日の関東大震災。料理店も皆大きな被害を受けた。東洋軒は三田本店だけが残り、精養軒も上野のみ。こうしたなか、料理人のなかには、これを機に関西に新天地を求めた人も多かった。優秀な才能が、関西の料理界を大きく発展させることにひと役買うこととなった。さらに昭和2(1927)年には、横浜に「ホテルニューグランド」が開業。「帝国ホテル」の料理の礎を築いたといわれる内海藤太郎が料理長に就任し、新たな料理界の動きが見えてくる。内海の教えをうけた田中徳三郎は、のちに「東京會鐐」「パレスホテル」で活躍した。このようにして、日本のフランス料理界は多くの才能がひしめき合い、互いに刺激し合って成長を遂げていったのだ。
馬田草織―文 長瀬ゆかり、増田岳二―写真
本記事は雑誌料理王国第237号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は第237号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。