気候や風土に合わせて、長い歳月をかけ各地で育まれてきた、世界のパンと粉食文化を紹介します。
毎日たべているパンをつくるまで何世紀もの間、無数の世代の人たちがどれほど巨大な努力を続けてきたことだろう。
ニコライ・ミハイロヴィッチ・ヴェルジーリン著『植物とわたしたち』より
ふっくらと焼かれた小麦のパンが人間の知能の最大の発明であることに、誰が思いをいたすだろうか。
クリメント・アルカディエヴィッチ・ティミリヤーゼフロシアの植物学者
ユダヤ人のパンといわれ、ユダヤ人口の多いニューヨークで、街角のスタンドやデリカテッセンで買える手軽さ、油脂を使わないヘルシーさが人気を呼んだ。旧約聖書でモーセが無発酵のパンを神にささげたという記述から無発酵のパンが神聖なものとされ、年に一度のユダヤ教のお祭りでは、無発酵パン「マツァ」を食べる習慣がある。
エンパナーダは挽き肉、タマネギなど、調味して炒めた具材を小麦粉の生地で包み、油で揚げるかオーブンで焼くかしたもの。軽食として、ミートパイ感覚で南米で日常的に食されており、具材は地域や家庭によってさまざま。スーパ ーマーケットには好きな具材を包んで揚げるだけのエンパナーダ生地が売られている。
気温の低い北欧では、ライ麦を使 ったパンが多い。ドーナツ形の薄いライ麦パン「ハパンレイパ」は、 8等分くらいに切り分け、ふたつに割りサーモンなど具材をはさんで食べる。「ルイスリンプ」(「ルイス」はライ麦の意味)はフィンランドの家庭で日常的に食べられるパン。食べる分を薄くスライスする。
ライ麦は寒さに強く、北欧やロシアで多く生産されている。小麦と違いグルニテンを含まないので、パンを膨らますための膜ができない。小麦をつなぎにすることが多く、ライ麦の割合が多ければこの黒パンのように型に入れ、蒸し焼きのようにして焼く。「サンドリヨン」ではロシアの主要ライ麦産地、シベリア・アルタイ地方から輸入したライ麦で「ロシアの黒パン」を焼いている。
かつては大きくて丸いパンが主流で、「ブーランジェ(パン屋の意)」も、「丸い(ブール)」という言葉がもとだそう。バゲットの原型となる細長いパンは、14世紀頃パリの城壁内1区から11区の範囲のみで作られ、「おしゃれパン」と呼ばれていた。ブリオッシュはローマ時代、神への捧げものに、小麦粉をこねて牛の形を作ったことに始まる。それから貴重なハチミツやバター、卵、ミルク、チーズを使って乳房の形に焼くようになり、その後フランスで発酵生地を使った今のパンになった。
「エキメッキ」はトルコ語で「パン」全般の意。トルコはパン食で、朝も昼も晩も、食事には必ずパンがつく。定番はコッペパンのような形で、全粒粉のものもあり、この写真のものが、スーパーマーケ ットなどで毎日買う「エキメッキ」。
チャパティは本来インド周辺地域の平焼きパン。ふるいを通さない全粒粉「アター」を水でこね、薄くのばして鉄板で焼くもの。ナンを焼くような窯がない一般の家庭では主にチャパティを焼く。右手で小さくちぎり、料理を挟むようにして口へ運ぶ。小麦の栽培がほとんどないアフリカだが、東海岸地域にはインドからの移民が多く、ケニアなどではチャパティがとくに日常的に食べられる。
インドで広く食べられている「ナン」は、筒状の窯の内側に生地をペタンと貼り付けて焼く。精製された白い小麦粉をこねて発酵させた生地で、薄いがふわりと膨らんで軽い。「ラチャパラタ」は南インドの無発酵パン。アター(全粒粉)に油を加えて水でこね、生地をたたむようにするため、焼き上がりが層になる。細くのばして円形に巻き、平たくのばしてからギーを使って焼く。
インド系、中国系、マレー系と、民族同様料理もはっきりと分かれ、その中にそれぞれ「マレーシア風」アレンジが入るのがマレーシアの食文化。「ロティ・チャナイ」は薄焼き無発酵パンで、小麦粉をこねるのに水と卵を使う。街中の屋台で食べることが多く、カレーと一緒に、また朝ごはんとしても一般的。
モンゴルにおける一般的な粉食の形は、「うどん」。「ジォンジ」は小麦粉に油を加えて水でこね、何度か折り畳んで層ができるようにし、円形に巻いて薄くのばして、蒸し器で蒸してから2~3センチに切る。羊肉のスープに浸して食べ、残れば朝ごはんにミルクをかけて食べるとか。
小麦粉を食べるのはおもに北部。写真のようなごくシンプルな形の「マントウ」がよく食べられている。料理と一緒に食べるのはもちろん、朝には「コーヒーとマントウ」。発酵させた生地を、焼くのではなく蒸して作る。「ジンビン」は直径30センチほどもある。餃子の皮のように小麦粉を熱湯でこねて作った無発酵の生地を、薄くのばして焼く。具材を巻いて食べる。
「スペルト小麦」と聞いてピンと来なくても、「ディンケル」(ドイツ語名)、「ファッロ」(イタリア語名)だとわかる人も多いだろう。
スペルト小麦は、今世界的に栽培されている小麦の原種。品種改良が進むなかで、収穫率が高く製粉が容易な新種の小麦の前に姿を消したが、30年ほど前からドイツを中心に「健康」、「ビオ」の流れのなかで注目を浴び、パンへの使用がヨーロッパに広まっていった。
スペルト小麦を日本で製粉・販売するのが、愛知県の西尾製粉である。3年前にスペルト小麦に出合い、製粉工場を視察しにオーストラリアまで行き、そこで学んだ方法をそっくり再現して、自社での製粉に成功。さらに粉質の安定などの研究を重ねて2007年夏には販売を開始、09年から原料の小麦をオーストラリア産からドイツ産へ切り替えた。「お客さまとは基本的に直接やりとりをさせていただいています。東京へも頻繁に足を運びます。小さい会社だからこそ、お客さまの声を大切にしたい。個人のパン屋さんへも可能な限りお邪魔させていただくようにしています」と同社取締役の長尾治さん。商品の品質が安定した今、積極的にパン屋さんへスペルト小麦を提案していきたいという。
参考文献『パンの百科』締木信太郎著 中央公論社
本記事は雑誌料理王国179号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は179号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。