ロンドンの人気レストランを舞台にした英国映画「ボイリング・ポイント/沸騰」が、日本でも7月15日封切りとなった。90分途切れなく回るカメラが捉えた厨房の真実とは? ロンドン在住ライターが業界の今を読み解く。
全編にみなぎる緊張感が半端ない。これはワンテイク&編集なしというドキュメンタリータッチの演出によるもので、仕上がりはほとんど「キッチン・ホラー」だ。ロンドンのレストラン事情を知る身としては、なんとも胸が詰まる思いをさせられた。
設定は年間を通して最も忙しいクリスマス時期の金曜ディナータイム。予約受付の混乱やスタッフ間の人間模様、客からの理不尽なリクエスト、高級レストランならではのプレッシャーなど、全てがありうる光景であり、この迫真の臨場感はフィリップ・バランティーニ監督自身の10年以上に及ぶシェフ実務経験からくるものなのだろう。リアルすぎて思わず目を覆いたくなってしまった。
しかしスティーブン・グレアム演じるオーナーシェフ、アンディが粘りつくような強い北部訛りでわめき散らし、厨房を威圧している様子は、現在の事情にそのまま当てはまるわけではない。
ひと昔前に流行った「怖いヘッドシェフ」というイメージは、今のロンドンでは時代遅れになりつつあり、現在はソーシャル・メディアの力もあってスタッフへの暴言は許されない状況になりつつある。軽い偏見発言やセクハラなどはおそらく日常茶飯事なのだろうが、悪質なものはすぐにSNSで広まり、実際に失脚する有名シェフもいる。
パンデミック前まで、ロンドンの外食産業の成長は天井知らずだった。優秀なシェフにはすぐに投資家が付き、PR会社と組んでスター・レストランへと育て上げていくという道筋が出来上がっており、それを後押しするテレビ番組もいくつか作られている。
一方で労働時間が長くなりがちなシェフたちは疲れ果て、クオリティライフを望んでロンドン外へと飛び出し、地方にも上質なレストランが立ち上がる現象も起きている。この映画はレストラン業界が抱える労働環境の問題を描き出すが、経営側が自ら作り出している業界全体の影の部分は、客として訪れたアンディのライバル・シェフが抱える事業不安によく現れている。
「この一夜に社会が抱える様々な問題が集約されている」とは公式ホームページにあるピーター・バラカン氏のコメントだが、それはまさに監督が意図したことだろう。異なる文化圏から来た人々の共存、ドラッグやアルコールなど業界特有の問題、スタッフが抱えるメンタルの問題など、全てがこの一夜に噴出し、浮き彫りにされている。
しかしあえて強調しておきたいのは、この映画がロンドンにおける全レストランの裏側を代弁しているわけではないことだ。私が知る多くの厨房はここまでひどいわけではない。むしろ前述したように彼らは今、古い体質から脱皮しようとしている。長く続いたレストラン・ブームのおかげでパンデミックやブレグジットによる人材不足にも負けず良いシェフが育ってきているし、業界も成長している。ロンドンに暮らす食ライターとして、そこは強調しておきたいところだ。
「ボイリング・ポイント/沸騰」
https://www.cetera.co.jp/boilingpoint/
text:江國まゆ Mayu Ekuni