グランシェフ、ミッシェル・トロワグロ氏の推薦で2006年に来日したリオネル・ベカさんの日本滞在は15年目に入った。また、1985年に初来日して以降、計24年も日本に暮らし、栄養コンサルタントを務めているエリカ・アンギャルさん。発酵や熟成、醸造の素晴らしさをここ日本の地でも再確認しているというふたりに、外国人の視点から、日本における食と健康の現状をどのように感じているのかを、語ってもらった。
味噌、醤油、酒など、日本の発酵食文化が注目を集めている。注目度は、海外の有名シェフはもちろん、一般の料理好きまでと広い。その動向を、オーストラリアと日本で栄養コンサルタントとして活躍するエリカ・アンギャルさんに聞いた。「古代ギリシャの医師ヒポクラテスをご存知ですか。彼の最も重要な功績のひとつは、紀元前5世紀に、病気も健康も、迷信や神業ではなく、自然的原因を持つ現象だ、と人々に気づかせたことです。だからこそ、『食べものは、最も素晴らしい薬』なのです。東洋医学にも同様の概念があると思いますが、私たち西洋人も、2400年前に確立されたこの概念を継承しています。だからこそ西洋人は、健康に役立つ効能が期待できる『日本の発酵文化』にも、惹かれるのだと思います」
銀座のフランス料理店「エスキス」の総料理長であるリオネル・ベカさんも、フランスが世界に誇るパンやチーズ、ワインなどを通して、フランス人なら誰もが、発酵の素晴らしさをDNAレベルで知っている、と指摘する。「だから、発酵自体はさほど珍しくありません。むしろ、日本の発酵食は、フランス人の味覚からすると、酸味が少なく、物足りないと感じることもあります」。
そんなリオネルさんとエリカさんが「発酵」で意気投合。インスパイアされたリオネルさんが、「心と身体の美と健康」をテーマにした美しいひと皿を作り上げた。出色は何と言っても、フロマージュブランと味噌で発酵させた野菜だ。
この新しい発酵野菜を作るにあたり、リオネルさんが注目したのは味噌に含まれる麹。彼は麹のことを「アスペルギルス・オリゼー」と親しみを込めて学術名で呼び、味噌蔵を借りて鴨を熟成させるなど、麹の働きに関する研究に余念がない。
リオネルさんは当初、乳酸菌とアスペルギルス・オリゼーを一緒にすることで、一方が一方を圧倒するのではないかと懸念していた。しかし、比率を変えて試作していくうちに、100グラムの麦味噌と30グラムのフロマージュブラン(またはヨーグルト)、1%の塩の割合で、床の菌の力のバランスが、自分の料理にとって完璧になることを発見した。「あとで勉強してわかったのですが、乳酸菌もアスペルギルス・オリゼーも、いわばいとこ同士、もとをたどればひとつの菌だったのですね」とリオネルさんは嬉しそうに語る。「発酵を研究していくとわかるのが、発酵とはエネルギーであるということです。日本語でいうと〝気〞に近いかもしれません。手作りで、ていねいに作られた発酵食品には、〝気〞があり、それを食べることによって人間には活力がみなぎるのだと感じています」
エリカさんは言う。「健康であるためには、腸の環境をよくすることがとても大事なのです」と。
腸内に約500種を超える「良い菌」が住んでいる理想の状態にするためには、上質な発酵食品を日常生活に、適切に摂り続けることが重要だとエリカさんは指摘する。
「女性が、スリムで若くありたいと思うのは当然だと思います。ただし糖質やタンパク質を全く摂らず、野菜サラダのみでダイエットをしていては、肌の張りや、内面的な美しさが失われてしまいます」とエリカさん。むしろ美しいシワを顔にたたえ、健康に歳を重ねること。それが美しさの理想ではないか。
「私は、『アンチエイジング』という言葉は好きではないんです。アンチって、反対とか排斥という意味。エイジングする(歳をとる)ということは、素晴らしいことなのに」
秋のからだを思いやる一皿
栄養バランスが丹念に考えられた野菜やフルーツを、漬物のように発酵したり、マリネしたり、さまざまな手法で調理した温プレート。 〝クロロフィル〞 をかけるイメージで作られたソースは、ホウレンソウ、鶏ブイヨン、トリュフ、パン少々、ビネガーやオイルからなる。
リオネルさんは「おいしい」が、健康的な食を続ける唯一の動機になる、と考えている。そこには、カロリーや糖質という「数字」を追いかけるのとは違う哲学がある。
例えば、フランスのアルザスやシュッド・ウエストといった地域には、チーズやフォワグラ、豚、羊、カモなどを使ったずっしりとした郷土料理がある。現代的に見れば体に悪い食事に見えるが、実際には健康で長生きする人が多い。
「古来の食の伝統の中にある、健康との密接な関係。それを失ってはいけないと思います」
「『フランスの美食術』がユネスコ無形文化遺産に登録されたように、日本の『和食』も登録されました。それは日本の伝統的な食文化が消えかかっているという意味でもあります」とエリカさんも続ける。
「実は、発酵というテーマは、現代の『便利で快適な食の消費』に対する警告でもあります」と、リオネルさんも言う。
発酵はエネルギーである。そのリオネルさんの言葉の裏には、大量消費や食の伝統の断絶、まさにエネルギーを失った〝死んだ食〞で満ちた現代を憂う想いがあるのだ。
インタビューを終えると、部屋中に、発酵した食材の香りが充満していたのに気付き、実感した。
この皿は生きている――と。
Lionel Beccat
1976年フランス・コルシカ島生まれ。フランス「メゾン・トロワグロ」のセカンドシェフ、東京「キュイジーヌ[s] ミッシェル・トロワグロ」のシェフを経て、 2012年に銀座「エスキス」のエグゼクティブ・シェフに就任した。11年、フランス国家農事功労賞シュヴァリエを受勲。
Erica Angyal
1969年オーストラリア・シドニー生まれ。オーストラリア伝統的医薬学会(ATMS)会員。西洋・東洋医学の知識をもとに、医師とチームを組み、患者の食改善に従事。その経験を買われ、2004~12年にはミス・ユニバース・ジャパン公式栄養コンサルタントを務めた。
横田典子=取材、文 依田佳子=撮影
本記事は雑誌料理王国2015年11月号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は2015年11月号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。