パンとガストロノミー【3】 ル・マンジュ・トゥー(Le Mange-Tout)谷昇さん


美味しい料理を出すレストランのパンが美味しいとは限らないけれど、美味しいパンを出すレストランの料理は、間違いなく美味しい—————レストランのパンについて料理人に聞くシリーズ、第三回は牛込神楽坂「ル・マンジュ・トゥー」の谷昇シェフです。

箪笥町、細工町、納戸町。東京の中でも「ル・マンジュ・トゥー」のある牛込神楽坂周辺は、江戸の町名が数多く現存する地域だ。数百年前が今につながっているのを感じることは、シェフの谷昇(たにのぼる)さんと話した後では、難しくないかもしれない。

谷さんの料理の根底には、クラシックが積み重なっている。この、クラシックという言葉の意味するものを、谷さんは「今のための過去」と解釈する。それは進化の過程にすぎない。

例えば静岡の名店「成生」の志村剛生さんの天ぷらを食べたときに、谷さんは思う。
「400年の系譜を経てなお、こんな風に進化させられるって、すごいことじゃないか。フランス料理もまだ進化させていくことができる」。

時間軸の話になると大きくなり過ぎるんですけど、と前置きして、数百年の話はいつしか数億年の生物の進化の話になっている。シニフィアン シニフィエの志賀勝栄さんとは、そんな話ばかりしているのだという。

「これはぼくのパンだ」。志賀さんのパンを初めて食べた時、思った。谷さんのパンの知識と経験は、イル・ド・フランス時代の師匠、アンドレ・パッション氏仕込みだ。「小僧の頃、ブーランジュリはパンしか作ってはいけない。町に3軒あったら定休日をずらさないといけない。なぜなら生活の糧だから、というようなことを聞いて、すごいと思ったんです。そういう環境で培われたフランス料理にすごく興味が持てました」。志賀さんのパンで、その頃のことを一気に思い出した。

「香りも食感も、ぼくの料理に合う。これを使いたい」。この「合う」「合わない」は主観で、それは今まで経験してきたことによって決まる。「だから美味しかったもまずかったも、合うも合わないも人それぞれでいいんです。ただ、ぼくは、志賀さんとは合うと思った」。それで、パンはすべて志賀さんまかせ。細かいことは何も言わない。アミューズのために、クグロフのサレをオーダーしたくらいだ。

伝統あるフランス料理の進化の過程で谷さんは、独自の理論を裏付けるために歴史や科学を勉強し、考える。「考えることじたいが面白くてたまらない」と楽しそうに笑う。その瞬間に既視感があって、すぐに合点がいく。志賀さんもよく、そんな風に言っているのだった。

谷さんがパンに合う料理として用意してくれたのは、秋を感じさせるような色合いの、シャルキュトリーを用いた肉料理だった。色とりどりのきらびやかな料理より、単色が好きだと谷さんは言う。「ぼくは服でも無彩色が大好きなんです。色彩を限りなく抜いたのは白、すべての色彩を混ぜたのは黒に近くなる。その二つにはすべての要素が入っている。彩色を押さえた分、面倒くさいのが好き」。

過剰なものの多いこの世界で、潔く単色で、細密に構築されたもの。思わず、遠目には無地に見える一色の細密な型染め文様が目に浮かぶ。「江戸小紋の世界観ですね」と言うと、「まさに。それがクラシックです」と谷さんの目が光る。脈々と続いてきた伝統は、無限に広がり、更新されていく可能性を持っている。
「糸を紡ぐ人、反物を織る人、型を作って染める人、日本にもギルドがありましたね」。

シャルキュトリーは16世紀頃の昔には、レストランとは別の仕事としてあった。今、彼があえてそれを作るのは、豚肉の加工が面白いから。昔こういう料理があったんですよ、という料理に自分の想いを込める。それは「古いもの」ではない。「ぼくはショパンが好きなんですけど、今聞いても全然古くないじゃないですか」。そして、そんな谷さんが仕込みの時に好んで聴いているのは、ビリー・アイリッシュだ。違和感はまったくない。

パンを愉しむ料理(2021.8)
ル・マンジュ・トゥーのシャルキュトリー

イベリコ・デ・ベジョータの肩肉、鴨のソーセージ、そしてフォワグラのコンフィ。3種の肉料理は、名残の夏トリュフとペリグルディーヌソースで美しい一皿となる。谷さんはこれを「現在進行形のル・マンジュ・トゥーのシャルキュトリー」と言った。ソースの仕上げにブールノワゼット(焦がしバター)を一気に入れて乳化させるのは、谷さん特有の技法だ。塩漬け豚の煮汁をベースにしているため、塩味がしっかり効いた濃厚な、けれど重くはないこのソースと、長時間発酵、多加水による、白飯のような甘みを持つパンは、なんとよく合うことだろう。

素材に寄り添うソースの存在価値がここにはしっかりとある。谷さんがソースを大切にするのは、すべてを食べ尽くす必要があった狩猟民族の伝統の先にある今の一皿を表現しているからだ。肉は骨も出汁をとることで余すところなく用いる。それがmange tout(すべてを食べる)ということだから。そしてソースは同時に、パンの存在価値をも際立たせる。

シニフィアン シニフィエのパン オ セレアルは、9種の穀物と4種の北海道産小麦でつくられるパンドミで、お客に出さない両端の部分も余すところなく、谷さんは、炙って食べるのが大好きだ。

谷 昇

1952年東京都出身。六本木「イル・ド・フランス」からフレンチの世界に入る。1976年、1989年渡仏。アルザスの三つ星レストラン「クロコディル」や二つ星レストラン「シリンガー」などで経験を積む。帰国後、六本木「オー・シザーブル」、「サバス」などでシェフを務めたあと、1994年に「ル・マンジュ・トゥー」をオープン。2006年改装オープン。ミシュランガイド東京開設より14年連続2つ星を取り続ける。著書に「プロに近づくためのフレンチの教科書」(河出書房新社)、「ル・マンジュ・トゥーの全仕事」(柴田書店)他

Le Mange-Tout(ル・マンジュ・トゥー)
【住所】東京都新宿区納戸町22
【電話番号】 03-3268-5911
【営業時間】17:00-20:00
(詳細、最新の情報は、公式サイトをご確認ください)
www.le-mange-tout.com

取材・文=清水 美穂子 写真=料理王国

清水美穂子
ブレッドジャーナリスト
パンとそれを取り巻く人々をテーマに、さまざまなメディアで執筆。
著書に『BAKERS  おいしいパンの向こう側』(実業之日本社)
『日々のパン手帖〜パンを愉しむsomething good』(メディアファクトリー)ほか

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