佐伯スタジオほど高設備の備わっているスタジオは他になかったと思います。
ストロボなどの機材は当然ながら、大きなテーブルの俯瞰撮影もできるスペース、並んでいる大型冷凍冷蔵庫・・・それに地下とスタジオを挟んだ向かいも含めて膨大にある調理器具や食器の数々が10万点!編集者はまず、撮影前に必要な調理器具から器やカトラリー、背景バック材を集めることからはじめるのです。
膨大ゆえに並んだ棚には「ブルックリン何丁目」とか目的別に住所表示があったのです。
先日佐伯の命日に自宅にお伺いして佐伯弥生夫人と話した時にギャランティの相当部分はこの機材やどこで誰が使うかわらない器を購入するために使い、毎月の電気料や水道料も凄くかかっていたのだと。百貨店で器の販売会があれば、事前にすべて買い取り本当の置く場所を増やしていったのでした。地階の迷路のような棚から撮影に合いそうな食器を探すのはワクワクしたことを覚えていました。
佐伯義勝は生涯に39人の弟子を育てスタジオは「佐伯学校」とも言われていました。昔はカメラマンになるには2つの道がありました。ひとつは写真スタジオでスタジオマンとして働きながらカメラマンを目指す、もう一つはカメラマンのアシスタントとなり修行を積んで独立する方法。佐伯のようにスタジオを持ってアシスタント=弟子であり、カメラマンとして教育をしていたのは珍しいことなのです。
佐伯スタジオから一本立ちすると佐伯は多くのクライアントに弟子の独立を知らせる案内状を送っていたのです。独立させるということは料理写真界にライバルを送り出すという意味でもあり佐伯の胸中は測りきれないのですが、自分が師事した木村伊兵衛や土門拳のように矜持で並びたかったのではと個人的には思うのです。真冬の寒い日でも佐伯スタジオの弟子軍は全員裸足で仕事していたのですが、裸足だと素早く動いても木の床で滑らないとう理由ですが、禅宗の寺の修行僧のようでした。
ハルコも家庭画報などの雑誌ではコンテのみを描いてあとは担当編集者が撮影立ち合いをするので、直接には立ち合いませんが、広告関係の時はクライアントも同席するのでアートディレクターとしてスタジオで指示したりしていました。また、ロケで佐伯に同行した時などはスタジオとは違う楽しみもありました。ある高名な洋菓子研究家の撮影の時に毎日撮影のケーキを食べさせられていたのですが、何日かして飽きてこっそりラーメンと餃子を食べに出かけたことがありました。その時のことを随分根に思ったのか(笑)「後藤さんは私の撮影の時に私を置いて、ラーメンを食べにいったのですよ」と会うたびに言われました。(本当はビールも飲んで後半撮影中に居眠りまでしていました)
本当に食べるのが大好きな「佐伯先生」でした。
2012年1月20日に佐伯は写真整理をした後に84歳で永眠しました。
歴代の弟子たちが集合して葬儀を仕切っていましたが、佐伯義勝が存在していなかったら日本の料理写真がどうなっていたか想像しにくいですね。
※参考資料
『佐伯義勝料理写真の世界』(佐伯義勝写真展実行委員会)
2022年3月14日 text by 後藤晴彦
後藤晴彦(お手伝いハルコ)
アートディレクター、出版プロデューサー、おいしく工学主催(食文化研究家)
岩手県産業創造アドバイザー、にんにく研究所主席研究員、京都「浜作」顧問、
貝印家庭用品アドバイザー
「家庭画報」で料理ページのデザインを担当し料理に関心をもつ。
フランス、イタリア、スペインなどテーマを決めて食べ歩きを10年ほど続けるが日本料理も探求すべく京都に通う。
その間に脳梗塞になったが、奇跡的に回復し料理と健康医学のテーマに取り込むことになる。また、調理器具開発も手掛け、野崎洋光氏や脇屋友詞氏などの商品プロダクトをする。著書「包丁の使い方とカッテング」「街場の料理の鉄人」「お手伝いハルコの懐かしごはん」など。
「お手伝いハルコ」のキャラクターで雑誌の連載やコラムの執筆活動をしている。