「安全なおいしさ」と「菌」の関係


落下細菌や土壌内の雑菌が多い日本では安全性のために「抗菌」が欠かせない。

シェフパティシエ 成田一世さん

レストランを訪れたゲストに「おいしさ」を堪能してもらうには、高度で多彩な調理技術が求められることはもちろんだが、食材をより良い状態で保存したり、厨房の衛生状態を良好に保ったりするための知識やテクニックも欠かせない。というのも、野菜や果物の鮮度は収穫した瞬間から落ちていくし、家畜や魚も、しめたのち上手に処理すれば一定期間はアミノ酸などの増加が見込めるものの、鮮度という点ではやはり低下していくからだ。また、不衛生な厨房では、本当に安全でおいしいものを作りあげることはできないと思う。

食の安全には、さまざまな因子が関与しているが、今回は「菌」について考えてみたい。菌について大雑把に言えば、旨味を増すための「熟成」や、パンやお菓子作りに不可欠な「発酵」の際に働くのが有用菌で、腐敗や食中毒などの原因となるのが腐敗菌ということになる。有用菌は熟成などによって、生の状態とはまったく違う風味を生み出すことから、おいしさと深く関わっている。

有用菌は肉や魚、野菜、果物など多くの食材に影響するが、中でも、ブドウを例にするとわかりやすいのではないだろうか。未成熟で収穫される酸っぱいブドウを加工するとヴェルジュ(ジュース)になり、熟れた果実を搾って醗酵させたものがワイン。それをもっと熟成させれば酢になるという具合だ。

食の安全や安心のために腐敗菌の増殖を阻害する「抗菌」という考え方も、同じようにおいしさに結びついている。ただし、抗菌というレベルで腐敗を防ごうとすれば、それは極めて短い時間でしかない。たとえば、笹の葉やシソの葉でくるんだりするのも抗菌のひとつ。笹の葉に含まれるフィトンチドやサリチル酸、シソの葉の成分でポリフェノールの1種であるペリルアルデヒドにも抗菌効果があるとされている。また塩、砂糖にも抗菌作用があるが、相当多量に使わない限り腐敗は止められず、止められても塩味や甘味が強すぎるなど、味の変化という弊害が出る。長くもつが塩抜きや砂糖抜きをする必要がある。 もし、それ以上の効果を望むなら、ぎりぎりの状態まで水分をなくしてカチカチにしたり、塩を強くきかせたりすること。甘味も糖度60パーセント以上にすれば腐敗は防げるし、また醸造酒、蒸留酒、酢などに漬け込むと1年でも2年でも保存できる。ただ、ヨーロッパには何年かかけて作るチーズや、何十年も寝かせたワインやリキュールがあるのに対し、日本で長い期間寝かせるものといえば梅干しや鮒寿司くらいで、ヨーロッパほど多くないように思える。菌の影響を完全にシャットアウトした保存法としては、缶詰や瓶詰が挙げられる。

私は海外で働く機会に恵まれたため、いろいろな国の空気、湿度、落下細菌の量、季節ごとの気温の変化などを肌で感じ、こうした自然環境に対するバリエーションを身に付けることができた。菌という視点で見た場合、アジアとヨーロッパでは大きく異なる。おそらく温度や湿度の差に関係するのだろう。厨房での落下細菌の量や土壌に含まれる雑菌の量が、ヨーロッパに比べてとてつもなく多く、日本も例外ではないのだ。

フランス料理の世界に限らず、最近は海外の発酵技術を取り入れている料理人が少なくない。ヨーロッパで日本の発酵を真似るのは比較的簡単だが、ヨーロッパの発酵を日本で行って現地の味に近づけようとすると、抗菌も含め、何段階かのプロセスを追加する必要があるが、それは腐敗菌が原因しているのだろう。オーブンや冷蔵庫など、厨房機器の進化により、調理温度はかなりの精度で調節できるようになったが、落下細菌や土壌中の雑菌まではコントロールできないというわけだ。

落下細菌がいかに厄介なものであるかについては、記憶に残るエピソードがある。日本のあるレストランで働いていた時のことだが、なぜか食材の腐敗が早く、パンやお菓子の生地の発酵もうまくいかないことに悩まされた。厨房内の掃除をいっそう強化したが、改善できなかった。そこで厨房をくまなく調べた結果、通気口からの落下細菌が原因していることがわかったのだ。湿気のこもりやすい厨房では通気口の衛生管理はもちろん、そこからの落下細菌が食材にふれないような配置を考えることも重要ということを学んだ。

そこで、「エスキス」では、セントラルキッチンも、各店の厨房も、抗菌について細心の注意を払っている。たとえば、厨房内は高圧高温洗浄機による洗浄を基本とし、調理器具や食器も洗浄機を使って高温殺菌を心掛け、場合によっては煮沸消毒を行う。

スタッフひとりひとりについても衛生管理を徹底させ、手洗いは当然、直接お客さまの口に入るものを扱う時にはプラスチックグローブを着用。頭髪落下防止のキャップをかぶり、コックコートやユニファームのクリーニングはもちろん、靴の表面や裏を洗って、常に清潔に保つようにしている。

また、セントラルキッチンでは、仕事の分担を徹底し、生の粉を使う人は1日中粉の仕事、クリームを扱う人は1日中クリームを扱う仕事と分けているが、それは効率化のためだけでなく、腐敗菌の増殖を抑えるために、あえていろいろなものに触れないようにする配慮からでもある。さらに腐敗菌の抑制には温度管理も有効で、急冷システムを活用している。食材を保存用に処理する際、加熱し終えたら、急速に冷蔵の温度帯まで落としてそのまま冷蔵保存するか、あるいはそれを冷凍保存すると、菌の増殖が抑えられる。

問題の落下細菌についての対策は難しいが、エアーカーテンによって空気の層を作り、落下細菌だけでなく外部からのほこりや塵などの侵入を防ぐようにしている。一方、落下細菌を除去することも大切なので、床にはできるだけ頻繁に湯を流して洗浄。乾きの早い湯を使うのも抗菌を意識してのことだ。

このほかにも抗菌として実行していることはたくさんあるが、すべての菌を抑えたり殺したりするのではなく、腐敗菌は殺して有用菌は残さなければならない。その加減が難しいところだ。なかには、「薬品を使って殺菌するのが手っ取り早い」と考える人がいるかもしれないが、それでは有用菌まで死んでしまう可能性がある。特にうちのレストランでは、天然酵母によるパンを焼いているため、有用菌が増殖できる環境をキープしなければならない。仮に有用菌が死んでしまうとその再生には非常に時間を要し、面倒な事態になってしまう。だから私は、できるだけ薬品を使わずに抗菌するように心掛けている。

最近、重宝されている次亜塩素水も、「素材の味を変えてしまう」との理由から使わないようにしている。抗菌のためにおいしさを損なうようなことがあっては本末転倒だからだ。

これからも安全なおいしさを実現するために、日本の風土にあった抗菌を追求していきたいと思っている。

ベルサイユ近くの「ラ・テット・ノワール」にて。昔はこんなことも手伝っていた。今では良い思い出だ。

KAZUTOSHI NARITA
1967年、青森県生まれ。高校時代はスキー部とボート部で活躍するスポーツ少年だったが、卒業後はシェフパティシエの道へ。99年に渡仏。一ツ星店「ステラ・マリス」、三ツ星店「エノテカ・ピンキオーリ」「ピエール・エルメ・パリ」などの名店で腕を磨く。NYの「ラトリエ・ドゥ・ジョエル・ロブション」時代の2007年に、パンとデザート部門でBest of New York に選ばれる。17年には、「アジアのベストレストラン50」の「アジアのベストパティシエ賞」を獲得。現在、「エスキス」「アジル」「エスキスサンク」のシェフパティシエとして活躍中。

本記事は雑誌料理王国285号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は285号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。


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