昨年9月、麻布十番「ビストラン・エレネスク」で1年半シェフを務めていた菊地佑自さんが独立し、銀座一丁目に「ビストロ・シンバ」をオープンさせた。エレネスクで供していた繊細で美しい、いわばガストロノミー寄りの料理とは正反対の、カジュアルなビストロ。10年のフランス修業の大半を三ツ星や二ツ星で過ごした菊地シェフの経歴を知る人は、さぞ驚いたことだろう。
「ビストロ・シンバ」は緑豊かな公園に面し、銀座とは思えない静かな立地にある。「元気の出る色にしたかったから」と、店内はビタミンカラーのオレンジを基調とした温かな雰囲気。素材を活かしたシンプルな料理が評判を呼び、既に連日満席の人気店になっている。
笑い声が絶えない賑やかな店内を、菊地シェフはエプロン姿でキッチンとホールの間を行ったり来たり。できたてのココットや南部鉄器で調理した料理などを、熱々の状態で提供するためだ。
「フランスのいろんな店でガストロノミーを勉強しましたが、今の自分がもっとも影響を受けたのはビストロノミーのティエリー・ブルトンシェフです。彼の仕事は、それまでガストロノミーで経験してきたものとはまったく違うものでした」
菊地さんがフランスに渡ったのは2002年。「ル・プティ・ニース・パセダ」や「オーベルジュ・デュ・ヴュー・ピュイ」といった名だたる三ツ星店などで研鑽を積んでいたある日、ビストロノミーを確立したイヴ・カンドボルド氏の「ラ・レガラード」で食事をして衝撃を受けた。「ユーロでこんなにできるんだ」と。コストパフォーマンスがよく、本当においしかった。片やその10倍もの金額の星付きの店での食事は、「料理はぬるくて一貫性がなく、いったい何人の人の手がこのひと皿に関わっているんだろう、と。ハイレベルの仕事は素晴らしかったけれど、僕には響かなかった」。
ガストロノミーがやりたくてフランスに渡ったものの、日増しにビストロノミーへの魅力を感じ始め、ついには「ラ・レガラード」で働く約束を取り付ける。しかし、イヴ・カンドボルド氏から「店を売却して新形態の店を始める」と聞き、断念する。替わって、ビストロノミーではトップクラスの「シェ・ミッシェル」で修業をスタートさせた。この店こそが、菊地さんがビストロに進むきっかけとなったティエリー・ブルトン氏の店だった。
パリにある「シェ・ミッシェル」は、ブルトン氏の出身地ブルターニュの郷土料理をベースにしながらも、素材を活かしたシンプルな料理を提供するビストロだ。実際に食べて「ズバ抜けている!」と感動し、修行先にと決めて約1年半働いた。 店は常に満席状態。予約の取れない店としても有名だった。厨房は、2回転目も含め約120席をブルトン氏を入れ3名で回した。ランチの営業もあるため、朝8時から深夜2時、3時までノンストップ。密度の濃い時間だった。
現在、菊地さんが店のコンセプトにしている「シンプルで、香りがあって、温かいサービス」の原型は、ブルトン氏から学んだものだ。
素材をどれだけ活かせるか。ブルトン氏の場合、たとえばいいセップ茸が入ったら、「ソテーするだけ」といたってシンプル。さらに熱々で出すためにココットを多用。料理ができあがった時にサービスのスタッフがいなければ、ブルトン氏が自ら走ってテーブルに運ぶこともある。料理は瞬間が大切。おいしいものも、時を逃せば一瞬で味が落ちる。それを師匠から学んだ菊地さんは、今、自身でも料理を運ぶ。
「テーブルの上でココットの蓋を開けたときの香りといったら。こんな熱々の料理は、綺麗でスマートなサービスのガストロノミーではできないですよね」
「ビストロ・シンバ」を開くにあたり、「地方の優れた生産者をお客さまに紹介したい」と、時間があれば全国の生産者をまわって歩いた。それは現在も続いている。
「ブルトンさんが、特に故郷ブルターニュの生産者を中心に、お客様に紹介していたんです。それを見て、すごくいいなと思った」
今年は各県の食材の特色を活かして、県ごとの食材だけでコース料理をやりたいと画策中だ。
食材へのこだわりは、それだけではない。菊地さんがブルトン氏に惹かれた理由は、「食材を捨てることなく綺麗に使い切る」考え方と実践。たとえば鱈なら、背の部分はローストにして魚料理に、腹はブランダードに、骨は魚のスープに。もちろん肉もしかり。豚1頭を購入し、脚は煮込み、骨は出汁、内臓はパテやソーセージなどにする。くず野菜は鶏ガラと一緒にブイヨンに。さらには茹でたジャガイモの湯も取っておき、テーブルから下げてきたカトラリーを、その湯で下洗いする。
「そういう考え、僕はすごく好きなんです」
ブルトン氏の影響で、ガストロノミーからビストロノミーの世界へ180度進路を変えた菊地さん。「ブルトンシェフに出会って、これが自分のしたいことなんだ、とはっきりわかったんです」
ブルターニュ風ポトフ。そば粉に生クリームと干しブドウを加えて練った団子を入れるのが特徴。オックステールをメインに、豚のホホ肉と舌、さらに根菜とちりめんキャベツなどの野菜、そば団子を入れて煮込む。
オックステール…500ℊ/豚舌…2個/豚ホホ肉…2個/ベーコン…80ℊ/ちりめんキャベツ…1/4個/ルタバガ…1個/カブ…1個/ニンジン…1本/ダイコン…1/4本/紅くるり大根1/4本/カリフローレ…4本/ロマネスコ…4房/インゲン…4本/ちぢみホウレンソウ…1株/ポロネギ…1本/ニンニク…1片/タマネギ…1個/ラード…適量
ファルス
卵…1個/そば粉…200ℊ/生クリーム…100㏄/レーズン…50ℊ/塩…2ℊ/水…150㏄
Yuji Kikuchi
1976年東京都生まれ。調理師学校卒業後、フランス料理店で働き、2002年に渡仏。3軒の三ツ星店を含むガストロノミーで修業後、「シェ・ミッシェル」などのビストロで研鑽を積む。12年帰国。麻布十番「ビストラン・エレネスク」のシェフを経て、15年独立。
名須川ミサコ=取材、文 星野泰孝=撮影
本記事は雑誌料理王国259号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は259号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。