パリ・ビストロブームはここから始まった!(前編)


パリのビストロブームの仕掛け人
ビストロの変革者ミッシェル・ピカールとその末裔たち

パリのビストロが今、おもしろい。ガストロノミーに力を入れた店が百花繚乱だ。この流行を生むきっかけとなった人物が存在した。ミッシェル・ピカール。
彼の軌跡を、その弟子たちが語る。

それは「アスティエ」から始まった

パリ11区に「ビストロ・ポール・ベール」がある。料理はもちろん、オーナーであるベルトラン・オボワノを愛して通う常連客も多い。彼はダイナミックで話がうまく、どんなことでも笑いに、そして活力にする。

そんなベルトランからミッシェル・ピカールの話を聞かされた。ピカールがいたからこそ、今の自分とこの店がある。ピカールは同じように多くのビストロ経営者を支えた。イヴ・カンドボルドが1992年にオープンしたビストロ「レガラード」によって、今でいうビストロのスタイルがブームとなったが、その先駆けを作ったのはピカールだった……等々。06年に逝去したピカール氏の存在は伝説的である。

ピカールは1944年パリ市郊外バニョレに生まれた。70年代にピカールはR・T・A・というボールベアリング関係の会社を買収。79年、11区ネムール通りに会社を移転し、今もここを同社の拠点としている。「会社に10時半にやってくると、その足で彼は市場に急ぎます。そして当時20人ほどいた従業員のために料理を作るのです」と、移転した際に配達運転手として雇われた現社長が言う。彼の作るパイ生地は最高だった。レストランやビストロなどにもよく通っていたらしく、料理はもちろん、それを皆で分かち合うのが、生来好きな性分だった。

80年、ピカールが今も11区にあるビストロ「アスティエ」を買い取り、〝ビストロ物語〞が始まる。マダム・アスティエは夫を亡くし、ひとりで店を切り盛りしていたが、ピカールは以前から、「もし、マダムが店を売却して引退するようなことがあったら、自分が店を買い取る」と冗談半分に言っていたそうだ。レストラン業について無知だったピカールは、マダムに条件を出す。「買い取るが、その代わり私がすべてを熟知するまで一緒に働いてくれ」と。こうしてピカールは二足のわらじを履くことになる。

「アスティエ」の初めてのお客は、のちに無二の親友のひとりとなるエレボール出版社の編集者ジャン=ポール・バリオラードだった。「他の客が来なかったら、一緒に別の店へ行くとしよう!」とピカール氏。そして、会ったばかりの人は他の店へ行く。

プリフィクス・メニューを考案

初めは、R・T・A・の事業主という立場にいたため、本腰を入れられず、店はなかなか回転しなかった、その頃、前菜+メイン+チーズ+デザートで80フラン(当時約2500円)ほどのプリフィクス・メニューを考案。フランス初のプリフィクス・メニューの誕生だ。毎日の仕入れに応じた料理を決め、紙に書く。しかし、当時は誰も見向きもしない。事業が困窮化してきたため、R・T・A・を手放し、86年、ホール係と料理人を雇う。のちにこの店のオーナーとなるベルトラン・ベルニョとジャン=リュック・クレールだ。新鮮な素材と、すばらしいキュイッソン、優れたワインリスト。どれをとっても星付きレストランに引けを取らない内容で、リーズナブル。そして、名物はピカール本人。彼は容赦なく、お客にも物言いをした。そんなピカールを慕うお客も増え、店はいっぱいになった。

90年ピカールは、店の売却を決めた。それをベルトランとジャン=リュックのふたりに伝えると「是非引き取りたい」と言う。それで、保証人となって借金の段取りをした。92年にオープンした「ヴィヤレ」のケースもこれと同じだ。こうしてできた金で、ピカールは他の料理人たちに金を融通することも多々あったそうである。「ビストロ・デ・スピール」のローランにしても、「ルペール・ド・カルトゥーシュ」のルドルフにしても、精神的、金銭的にピカールに負うところが大きかったという。妻子がいないピカールにとって、弟子たち子供同然だったのだろう。

健康を憂慮して「ヴィヤレ」を受け渡し引退した後も、ピカールの日課は、愛する弟子や息子たちがいる店をスクーターで巡ることだった。そして各店の食卓につくと、何時間も離れない。夕食が明け方にまで及ぶこともしばしばだった。

ヌーヴェル・キュイジーヌの旋風がおさまりつつあるなか、プリフィクス・メニューは、ガストロノミーレストランでも導入されるほどの影響力を持つことになった。

ワインの小さな造り手を支援

そしてさらにピカールが広めたのは、ワインの小生産者である。自ら生産者を訪ね、グラン・クリュではないが、いいワインを造る醸造家をパリのビストロに紹介することで積極的に支援した。多くの小生産者に脚光が当たり、今や消費者の意識にまで浸透しているのは、ピカールのお陰といってもいい。ピカールは料理といいワインといい、そのスタイルといい、ビストロのあり方を根本から改革した。いずれにしても、料理とワインを愛する情熱から自然とそうなっただけなのではあるが。

スタイルに関しては、すべてはピカールのエレガンスを愛する心から生まれたものだろう。「アスティエ」「ヴィヤレ」のオーナー時代は、コックコートを身につけていたが、必ず質のよい〝ブラギャール〞のものを選んだ。食卓では、ナプキンを首にかける専用のチェーンを着用した。ビストロでも布のテーブルクロス、少なくとも布のナプキンを用意するべきとの考えがあった。ピカールの信条を挙げたらきりがない。

Bistrot Paul Bert ビストロ・ポール・ベール

ピカールのビストロ哲学継承者

現在の〝月曜会〞をはじめ、故ピカールの仲間たちをまとめるのは、ほとんど同店のオーナーであるベルトラン・オボワノだ。入口を入ると左手すぐに、通りに面したテーブル席があるが、ピカールの友人だったお客が今も座る。編集者ジャン=ポール・バリオラード、「ピカールとは1年に400回も食事をした」というクロード・シャブロルの映画プロデューサーとして知られるパトリック・ドゥロヌーなどの面々。ピカールが必ず座る指定席でもあった。

オボワノの職歴は特筆すべきものがある。51年、パリ16区の裕福な家庭に生まれ、家族が経営するオボワノ=ラ・ブレという株式仲買の会社に勤めたが、その後、会社の吸収合併を行うレバノンの企業に就職。中東やポルトガルで生活する。「簡単に金を動かす」ビジネスの世界に嫌気がさしたベルトランはパリへ戻り、97年、今のパートナーでもあるグエンと「ビストロ・ポール・ベール」をオープンすることになった。当初は、ふたりの友人でもあり、すばらしい料理人でもあったセバスチャンがシェフをしていたが、病を患っており、急逝。途方に暮れていたときに出会ったのがピカールだった。ベルトランは、ピカールが店に初めてやって来たとき、他のお客から、「あいつは、『アスティエ』の名物オーナーだった人物だ」と囁かれた。「アスティエ」での苦い想い出が突然蘇った。パリに戻ってきたばかりの10年前、高級ホテル「サン・ジェームス」から、大きなリムジンカーで「アスティエ」乗り付けたことがある。しかも到着したのは1時間遅れ。店のオーナーと見られる人物から、こっぴどくどやされた。「遅れてくる者たちには席はない!出ていけ!!」。そのエピソードを思い出し、いたずら心が生じたベルトランは、14時ぎりぎりにやってきたピカールに冗談まじりにこう言った。「サービスはできませんよ。もうサービスするには遅すぎる!」。昔のアスティエ」での出来事をベルトランは告白し、ふたりの距離が縮まる。

それからピカールはほぼ毎日のように「ポール・ベール」へ通い詰めた。絆が深まるとともに、ビストロとしてのあり方、ワインのセレクションなど、今あるこの店のすべてのシャルム(魅力)が、ピカールの助言によって培われていった。「赤身肉は、ブルーかレアで、あるいは、まずい焼き方でサービスします!」と、壁に掲げてあるメニューに書かれてあるが、これはピカール譲りのフィロソフィーでありユーモアだ。つまり「赤身肉は、ブルーかレアで食べるもの。ミディアム、ウェルダンなんかで食べるものではない」ということだ。

口は悪いが、常に真実しか言わなかったピカールは、友情を心から大切にする人だった。たとえば、ベルトランのパリ不在中に、店のガラス窓が深夜に壊されてしまったとき。ピカールが駆けつけ、直るまで店番をしてくれた。そんなピカールからベルトランに電話が入った。「店は心配するな! 店番していてやるが、お前のとこのカーブのワインは、飲ませてもらうぞ」。また、やっとの休暇にベルトランがパリを脱出し、夜を通して運転をしなくてはならなくなったとき。居眠り運転しては危険だと、ピカールは心配して携帯に電話をかけてきて、5時間話し通し、眠気を払ってくれたのだそうだ。ピカールの葬式の後の晩餐はこの店で行われた。彼を慕う100人もの人が訪れたそうだ。

「ビストロは、質の良いシンプルな料理をリーズナブルな価格で提供する店のこと。新鮮な素材、正確なキュイッソン。厨房の躍動感を感じられる作り立ての料理が、給仕の笑顔とともにテーブルに運ばれる。それは、人々が集う和気あいあいとした雰囲気をまた盛り上げてくれるもの。そして人々の会話が弾む、豊かなひとときが生まれるのです。そんな一体感がある場所こそビストロで、それはアートにも近い」。ベルトランは、ピカールによって生まれたビストロのエスプリの継承者として、そう語る。

ピカール氏へ捧げるひと皿
「良質で新鮮な素材を使ったシンプルな、しかしよくできた料理を愛していました」

後編へ続く。
https://cuisine-kingdom.com/bistro-boom-2

伊藤文(パリ)―文・構成/ファビオ・カルベッティ(パリ)―写真

本記事は雑誌料理王国2008年12月号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は2008年12月号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。


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