大阪・心斎橋に誕生した、日本で初めてのディオールのレストラン「ムッシュ ディオール by アンヌ=ソフィー・ピック」。厨房を託されたのは、現在女性シェフとして世界で最も多くのミシュランの星を持つ、アンヌ=ソフィー・ピックである。日本という国でクリスチャン・ディオールが遺した美意識をどう読み解き、皿の上へ翻訳したのか。そして四代続く料理一家に生まれた彼女が語る、継承と進化とは。来日したアンヌ=ソフィー・ピックにインタビューした。
2026年6月。大阪心斎橋に、フランスの高級ブランド「ディオール(DIOR)」の大型旗艦店がオープンした。
フランスのトップメゾンが展開する、ファッションからアート、ライフスタイル、レストランまでを一体型で体験できるコンセプトストアは、メゾンの歴史と美学を五感で感じられる文化空間となっている。
その4階にある「ムッシュ ディオール by アンヌ=ソフィー・ピック」は、世界で3店舗目、日本初となるレストラン。ディオールの世界観を纏うガストロノミックな料理が味わえる日本唯一の場所。そのシェフとして白羽の矢が立ったのが、「メゾン・ピック」のシェフ、アンヌ=ソフィー・ピック氏だ。

「メゾン・ピック」は1889年創業、四代にわたり受け継がれてきたフランス・ヴァランスの名門ガストロノミーレストランだ。現在はホテルやビストロを併設する美食のメゾンとしてミシュランの三つ星に輝くなど、世界的な評価を得ている。
「アロマ」「ダイバーシティ(多様性)」、そして「味わいのエモーション」を核とし、伝統を深く尊重しつつもソースや調理法を通じて素材の可能性を引き出す料理は、どれも絵画のように美しい。そしてそこには、アンヌ=ソフィー・ピックがまだ21歳の学生のころに訪れて“恋してしまった”という日本の影響が大きくあるのだという。
「日本は私の料理にたくさんの要素をもたらしてくれるインスピレーションの源でした。日本との出合いがあったからこそ、今の私が、そして、今の私の料理があります」
そんな彼女にとって日本は、いつかレストランを開いてみたいという夢の場所だった。その願いが、ディオールとの出合いで現実となったのだ。

しかし、自身の店「メゾン・ピック」ではなく「ムッシュ ディオール」の名で料理をするということは、彼女にとっても大きなチャレンジだった。パリのトップメゾンとしてディオールの世界は確立されたものがある。その世界観を料理で、そして日本でどう表現するか。
その挑戦に臨むにあたり、アンヌ=ソフィー・ピックが真っ先に訪れたのはディオールの資料がアーカイブされている「ディオール ヘリテージ」だった。そこで見たのは、ディオールが遺した資料やデザインスケッチなど創作の痕跡。それらを丹念に見つめながら、彼女は一人のクリエイターの思考をたどっていった。
「ドレスのシルエット、素材の透明感、そしてテクスチャー……さまざまな要素に触れた際、それらが自身の料理における美意識と深い場所でつながっているような感覚になりました」。
さらに、いくつかの事実にも感銘を受けた。一つは、ムッシュ ディオールがドレスに料理名を付けていたこと。もう一つは、かつてレストランを運営していた際に、メニューに手書きで美しい絵を描いていたこと。食を愛したムッシュ ディオールの人柄が垣間見えるような資料を見つけ、より深くその世界観に入り込めたという。
また、ピック氏の祖父がムッシュ ディオールと同世代(1950年代)であったこともあり、アーカイブを見ながら祖父が語ってくれた時代の風景がより鮮明に思い浮かんだことも、理解が深まる追い風となった。

「これらの体験を通して、ディオールの仕事に見られる繊細さ、正確性、そして美意識を自身の料理の世界で表現したいという思いを強くしました。それは、メゾンのルーツを裏切ることなく、かつ自分らしさを失わずに進化を続けるという、今後の創作活動における重要な指針となったのです」。
彼女が読み取ろうとしたのは、デザインをそのまま皿に写すことではない。ムッシュ ディオールが何を美しいと感じ、どのような感性でものづくりをしていたのか。その本質を、自らの料理へと翻訳するためのヒントだった。そうして得たインスピレーションを紡ぎながら、料理を一つずつ構築していった。

さて、その創造がどう結実したのか。実際の料理とともに紹介しよう。
コースの始まりを告げるのは「レトワール ドゥ メール」。蕎麦茶のババロアに、みかんとディルのコンディメントを合わせた前菜だ。北海道産の乳製品のやわらかなコクに柑橘とハーブの香りを重ねている。ディオールの“ラッキースター”とも重なるヒトデを模っているのも愛らしい。

「メゾン・ピック」のスペシャリテ「ベルランゴ」は、大阪ではディオールを象徴する「レオパード」柄へと姿を変えた。
中には24カ月熟成のコンテチーズとマスカルポーネを包み込み、和だしを取り入れたソースと合わせることで、日本ならではの味わいへと昇華させている。

「メゾン・ピック」を代表するデザート「ミルフィーユ」にはディオールを象徴する「千鳥格子」を思わせる表現を取り入れて。美しい織物のように幾重にもテクスチャーを重ね、そこへバニラとジャスミンの繊細な香りを添えており、フレグランス「ミス ディオール」と、そのケースを彩ったモチーフを想起させる。
まさに、自身のスペシャリテにディオールのエッセンスを重ね合わせ、そこから新たな物語を生み出した一品だ。
どの料理も彼女らしく、敬愛する日本特有の素材を大胆に組み合わせ、香りを生かし、時にディオールらしいパターンを忍び込ませる遊び心が楽しい。そこからは彼女の尽きることのない知的好奇心が伺えた。

ファッションブランドは、過去のアーカイブを大切にしながらも時代とともに変化し続け、継承されていく。それは歴史あるレストランでも同じだろう。
アンヌ=ソフィー・ピックは、ディオールよりも古い歴史を持つレストランの四代目だ。長い歴史は時に受け継ぐ者に、大きな重圧になる。彼女自身、シェフになる道を最初から受け入れていたわけではなかった。実際に若い頃に一度、家業とは異なる道を選んでいる。
「簡単にこの世界に入ったと思われたくなかったんですね。“継承”は私には重かった。家の名前ではなく、自分自身の力で認められたい。そんな思いが最初は人一倍強かったと思います」。
まったく違う仕事をしていたが、23歳の時に父親が急逝したことがきっかけで料理の世界に飛び込んだ。そして兄から引き継いでシェフとして店を率いて2007年に36歳でミシュラン三つ星を奪還。女性が率いるレストランが三つ星に輝いたのは実に40年ぶりという快挙を成し遂げた。
無我夢中で家業を継ぎ、走り続けてきたが、時間が経つなかで歴史を受け継ぐことに対しての考えも少しずつ変わっていったと話す。
「継承とは、レシピや建物などの物質的なものではありません。先人が育んできた美意識であり文化を未来に繋げることなのです」。
その思いを深めたのも、日本での体験だった。ある時、15代以上続く陶芸の工房を訪れたのだが、その陶芸家が若い頃に手がけた作品と、今まさに作っている作品が、まるで違っていた。受け継いだ技術を守ることから始まり、長い時間をかけて、その陶芸家は自分だけの表現へとたどり着いていたことに、感銘を受け、自身に思わず重ねたのだと話してくれた。
継承とは、同じものを繰り返すことではない。受け継いだものを礎に、自分自身の表現を育み、次の時代へと手渡していくこと。「ムッシュ ディオール」で彼女が向き合った姿勢もまさにその考えに通じている。

最後に、彼女の料理人人生のなかで、向き合わざるを得なかったであろうことを質問してみた。
世界のガストロノミーは、いまなお男性シェフが多数を占める世界だ。そのなかで彼女は、現在女性シェフとして世界で最も多くの星を持つという、前例のない存在となった。ここまでの道のりは、女性ゆえに想像以上に厳しいものだったのではないか。
しかし取材を通して繰り返し語られたのは、「女性だから」ということではなく、一人の料理人として信念を貫くことだった。
「どんな壁が立ちはだかろうが、諦めずに貫くことです。夢は自分で叶えなければなりません」
実際、アンヌ=ソフィー・ピックは、料理の世界に戻ったとき、父が失った星を必ず取り戻すと誓い、それを実現した。そこにあるのは、誰に向けたものでもない、自分自身との約束である。もちろん、すべてが思い通りに進んだわけではない。
「一生懸命仕事をしても、うまくいかないことは必ずあります。そんな時は、一度立ち止まって深呼吸をして、また仕切り直せばいいのです」
創作が行き詰まることもあれば、努力が報われないこともある。料理人であれば誰もが味わう苦しみを、彼女もまた何度となく経験してきた。だからこそ、立ち止まることを恐れない。
失敗してもいい。遠回りをしてもいい。それでも、自分を信じ続けること。父から受け継いだメゾンを率いつつ、新たに35年越しの夢を日本で実らせた彼女がたどり着いた答えである。
受け継いだ文化を新たな創造へと昇華し、次の時代へ手渡していく。「ムッシュ ディオール」という彼女の新しい挑戦は、いま始まったばかりだ。
ムッシュ ディオール by アンヌ=ソフィー・ピック
大阪府大阪市中央区心斎橋筋1-7-1 ハウス オブ ディオール 心斎橋 4F
TEL 06-4400-6818
ランチ 11:30~15:00(L.O.13:30)、ディナー 18:00~22:30(L.O.20:00)
月休
ランチコース1万2000円~、ディナーコース2万3千円~(サービス料15%別) 要予約
https://www.tablecheck.com/ja/monsieur-dior-osaka
text:Misa Yamaji
