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水牛とともに生きる。“カザーロ”竹島英俊さんの現在地点 前編

水牛とともに生きる。“カザーロ”竹島英俊さんの現在地点

千葉県木更津市にある農場パーク。園内にはレストランやベーカリー、シャルキュトリーなどがあり、季節の良い時には平日でも結構な人が訪れる。ここでカザーロ(チーズなど乳製品を作る酪農家)として働く竹島英俊さんは朝3時半から乳搾り、そしてチーズ作りに取り組む。動物に休みはないから竹島さんにももちろん休日はない。「ここへきて1200日あまり。疲れはもちろん溜まるし、2回くらい倒れたし、居眠り運転で危ないこともあった。普通の人間だったらもう3回くらい死んでます」。淡々とした語り口で恐ろしいことをいう。見た目は修行僧のようで、肉体的精神的にもかなりギリギリの状態だろうに、飄々としている。そして語る内容が濃く激しい。なぜこの道に入ったのか、そして何を思って今を生きているのだろう。そんな好奇心を掻き立てる人物である。

心が奪われ、度肝を抜かれた、イタリア

竹島さんに初めて会ったのは、福岡のイタリア料理店だった。宮崎で水牛酪農を営んでいたが口蹄疫の蔓延で牧場を閉めざるを得なくなり、ひとまずそのイタリア料理店で働いていたのだった。「すごいモッツァレッラを作る人ですよ」と紹介されたのだが、その後、竹島さんのモッツァレッラを実際に味わう機会はなかなか訪れなかった。竹島さん自身も長い間トンネルの中にいたらしい。もちろん、じっとしていたわけではなく、再び水牛酪農を開始すべく模索を続けていた。そして今、料理店や小売店で、もっと確実にはここ木更津のショップで竹島さんのモッツァレッラを入手することができるようになったのである。

そもそもなぜモッツァレッラなのか。しかも水牛の。

春は出産ラッシュ。仔羊とともに
春は出産ラッシュ。仔羊とともに

「僕は学校を卒業してすぐに実家が経営する会社に入ったんです。ガソリンスタンドとラーメン店を1店舗ずつ、経営的にはうまくいっていましたし、収入もよかった。でも、これじゃないなと。このまま会社を大きくしていくことにどうしても魅力を感じられなかったんです。これじゃ死ねない、死ねる仕事はなんだろうと。遊ぶことに一生懸命なイタリア人には理解できないでしょうけれど、真剣に死ねる仕事を探しました」。

そんな時にたまたま本屋で、“イタリアの田舎暮らし”というような本を見つけ、その中に「幸せに過ごしている動物たちが作るものは良いものだ」とあって、心が反応した。南イタリアで水牛のモッツァレッラというものが作られていて、それが首都ローマにまで運ばれているという。それを日本でも作ればいいじゃないか。

思い立った竹島さんは、早速イタリア旅行に出かけた。ツアーに参加し、ガイドブックを持たず、なんの前知識も入れずにいきなりバチカンのクーポラに連れて行かれ、度肝を抜かれた。スケール感、ゴージャス感、すべてがすごい、と。日本に戻って今度は長逗留をする心算で準備をして、再びイタリアへ。フィレンツェの語学学校に通いながら、田舎へ出かけた。当初はアグリトゥリズモを日本でやってみようと思っていたが、イタリア現地では古い石造りの建物をリノベーションして使っているのを見て、これを日本で実現するのは難しいと思い、水牛のモッツァレッラ作りを目標に絞り込んだ。

販売している水牛のモッツァッレッラとリコッタ
販売している水牛のモッツァッレッラとリコッタ

無給で学んだモッツァレッラ作り

モッツァレッラの本場はカンパーニア州。産地の一つであるカゼルタへ赴き、モッツァレッラメーカーを回った。アポ無しで、拙いイタリア語で交渉をするも門前払い。30軒ほども回ったがすべて断られた。時には「しつこいと警察を呼ぶぞ」とまで言われた。しかも滞在許可証がなかったので住まいを借りることもできなかった。だがついに、家族経営の一軒で渋るオーナーをその妻と娘さんが説得してくれて、働くことが決まった。「経営者としてはリスクですよ、闇でアジア人を働かせるなんて。カゼルタはナポリから近いのですが、結構真面目なんです」。そしてナポリでは住まいも見つけることができた。お金さえ払えば抜け道があるのがナポリ。学生ばかりが住むアパートに潜り込み、学生に混ざって夜はポーカーをして遊び、早朝にカゼルタの工場へ出かけるという生活が始まった。

2年ほどそこで働いていたが、その間にサレルノの方にすごいメーカーがあるという噂をなんども耳にした。調べてみると水牛を600頭ほど飼育して、その原料乳しか使わず、チーズ以外にヨーグルトやジェラートも作りながら、しかも外へ流通させることなく、買いに来る人だけを相手にして毎日売り切れてしまうという。そこでぜひ働きたいと何度も交渉して1年半後、ようやく「タダならいいよ」ということになり、無給で事務所の2階に住み込みで働くことに。そこでは水牛の管理を学び、ついでにパルマの銀行をやめてチーズ製造に転業するという同僚からブルーチーズの作り方も教わった。こうして3年ほど、カンパーニア州で学べることは徹底的に学んで帰国した。

ブラウンスイス種の乳は水牛乳と合わせてゴーダチーズに
ブラウンスイス種の乳は水牛乳と合わせてゴーダチーズに

満を持して酪農開始、のはずだったが

「出身が東京ですから、近くで気候のいいところ、千葉でやりたいなと思っていたんです。でも、いきなり農協を訪ねて牧場をやりたいと言っても相手にしてもらえない。何するんだ?水牛を飼います、はいさようなら、ですよ。農地を取得するにも委員会全員の許可を取らなきゃいけない。何年も研修して、その地域に入ってやっと農地というものが取得できるんです。つまりほぼ不可能なんです」。

温暖なところを探し、静岡、瀬戸内地方、そしてついに宮崎まで南下してようやく一筋の光が見えた。農協が抱えていた不良債権の土地なら譲る、と言われてその土地を買い取った時には、オーストラリアから水牛が到着する日が迫っていた。

「土地が決まる前に水牛が届いてしまったら霞ヶ関に水牛を放ってやろうかと思っていました。一大ニュースになって、そこで“土地を売ってください”と訴えようかな、と」。ともかく水牛が到着する寸前に牧場地が決まり、霞ヶ関放牧はせずに済んだが、今度は迎えた水牛たちが初日に柵を壊して森に逃げてしまったのである。20頭すべてが山へ消え、竹島さんはたった1人で水牛達を連れ戻さねばならなくなった。

水牛の子供。竹島さんがくると乳がもらえると思って喜ぶ
水牛の子供。竹島さんがくると乳がもらえると思って喜ぶ

「ともかく崖を登って先回りしました。群れで脱走したので一頭連れて帰ればみんなついてくるだろうと。実際、全員牧場に戻すことができたのですが、翌日は凄まじい土砂降り。牛舎も未完成だったので竹でバリケードを組んで水を貯めたドラム缶で押さえて。あの心細さといったら...しかも20頭の水牛はみんな妊娠していて、搾乳準備も整っていないのに、あれ?ちっちゃい水牛がいる、産まれちゃった、すぐに乳を絞らなきゃ、こんな具合でしたね」。

しかしこの宮崎時代は3年で幕を閉じた。先述したように、口蹄疫が蔓延して水牛酪農は一時断念。東京に戻り、借金を返済しつつイタリア料理教室に通ったりイタリアンでアルバイトしながら、再始動のチャンスを伺った。そこへ竹富島から一本の電話がかかってきた。チーズを作ろうとしたが難しいので水牛を引き取ってもらえないかという依頼だった。「チャンスが来たな」と竹島さんは引き受けた。(後編へ続く)

竹島さんのモッツァレッラが買える場所
KURKKUFIELDS https://kurkkufields.jp

text:池田愛美 photo:池田匡克

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