東京の下町を歩けば、今もちらほらと懐かしい甘味処を見つけることができる。ニッポンの夏の風物詩、あんみつ、くず餅、心太……。こうした甘味は、どのように生まれ、今に伝えられるようになったのであろう。紐解けば、そこに江戸の食文化あり。涼やかな甘味のルーツを探ってみた。
江戸の町に「ひゃっこい〜、ひゃっこい〜」と振り売りの声が響けば夏の到来。天秤棒の木桶に入った砂糖水には、ゆらゆらと白玉が浮かび、1椀4文で売られていた。また天草を使った「心太」も江戸の夏の風物詩。
徳利に入った醤油や酢をかけて、あるいは砂糖やきな粉をかけて甘党にも好まれたという。
18世紀の頃、江戸の人口は100万人を超えていた。参勤交代で江戸詰めになった武士が人口の約半分を占め、圧倒的な男性社会に。甘味も公家文化に育まれた京菓子のような雅びな菓子よりも、おいしく腹を満たせる庶民的なものが好まれた。当時、汁粉は1杯12文で手軽に食べられた。汁粉屋はなぜか「正月屋」と呼ばれたようだ。雑煮も一緒に売っていたことで、こう名付けられたといわれている。
ところで、関西と関東では甘味に違いがある。関西で「ぜんざい」といえば、粒あんに餅が入ったものを指すが、関東では粟を蒸してあんをのせた「粟ぜんざい」が定番だ。いっぽう、関西で「汁粉」はこしあんと決まっているが、関東では粒あんが一般的である。
この関東風のぜんざいに入る「粟餅」は江戸時代の名物で、茶店の軒先では粟餅の「曲搗き」が行われた。半纏に鉢巻き姿の粋な江戸っ子たちが、蒸し上がった粟を臼に入れ、掛け声を掛け合いながら杵で搗き上げ、それをちぎって、あんやきな粉が入った鉢に曲投げし、道ゆく人たちに売りさばいたという。
江戸の名物といえば「団子」もはずせない。神社の門前で売られる団子は、1串4個、4文で売られたが、茶店では着飾った若い娘がもてなし、団子が24文から50文もした。蕎麦が一杯16文だったことを考えると、茶店の団子はいわばサービス料付きの贅沢品だったのだ。
江戸時代、京都や大坂から酒や醤油が「下りもの」として江戸に伝えられ珍重された。いっぽう、江戸の文化から生まれたものを「下らない」ものというが、「くず餅」は、「羽二重餅」と並んで江戸っ子自慢の「下らないもの」の代表格であった。
くず餅は、文化2(1805)年創業の「船橋屋」が元祖とされる。豆腐屋を営んでいた船橋出身の初代が、亀戸天神の境内で小麦を湯で練り、せいろで蒸して売ったのが始まり。当時はきな粉と黒みつでまぶし、竹の皮で包んで売られたそうだ。
ところで甘味の定番である「みつ豆」は、どうして生まれたのだろう。すでに江戸末期には見られ、明治の頃、一文菓子屋で心太と同じように売られていたという。ニッキ飴、心天、みつ豆が当時の駄菓子屋で人気だったようだ。みつ豆は通常5厘(10厘=1銭)だったが、1銭払えば脚付きコップに入れて、氷と干しあんずと一緒に盛られた。寒天抜きで、えんどう豆に蜜をかけるのが通好みの食べ方だったとか。
その後、昭和の文人墨客にも愛された甘味処。芥川龍之介は随筆『甘味』(双雅房)で「震災以来、東京は『梅園』『松村』以外は『しるこ』屋らしい『しるこ』屋は跡を絶ってしまった」と惜しんでいる。創業安政元(1854)年の「梅園」は、浅草寺別院梅園院の境内にあった茶店だが、現在も仲店通り脇で浅草名物の粟ぜんざいを食べさせる。
また、芋ようかんで有名な浅草「舟和」は、明治36(1903)年に日本で初めてみつ豆ホールを開店。このほか、昭和5年に創業した神田「竹むら」も東京では数少ない老舗の甘味処のひとつ。カフェもいいが、たまには東京の下町を散策しながら甘味処で休むのも、また一興。
立派な藤棚を持つ「船橋屋」亀戸天神前本店。昭和28年建築の店は、庭のある情緒漂う空間。
くず餅は、小麦粉でんぷんを木曽川水系の地下天然水を使用し、杉樽でじっくり15ケ月ねかせて乳酸発酵させる。いかに白く、くさみを出さず、弾力性を出すかが技の見せ所。コクのある黒蜜と香ばしいきな粉が絡みやすいように、台形に切られている。
沖村かなみ=文 安彦幸枝=写真
◎参考文献
「江戸の料理と食生活」原田信男編(小学館)
「江戸の庶民が拓いた食文化」渡邉信一著(三樹書房)「甘味/お菓子随筆(」双雅房)
「別冊太陽/和菓子歳時記(」平凡社)
本記事は雑誌料理王国2009年8月号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は2009年8月号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。