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開国と明治時代。フランス料理が花開いた築地「フレンチトライアングル」


明治、開国。長い鎖国から目を覚ました日本は海外から、ときに滑稽に見られるほど徹底的な洋風スタイルをめざした。その舞台のひとつとなったのは築地。現在は市場で活気づくその一帯では当時、築地ホテル、築地精養軒、延遼館を中心に、食卓を彩る料理としてフランス料理が花開いていたのだった。

東京都の公文書館に、明治14(1881)年に行われた「延遼館(えんりょうかん)夜会」の記録が残っている。「延遼館」というのは、東京汐留の浜離宮にあった外国人接待所。開国となり、海外からの賓客をもてなすために設けた明治政府初、あの「鹿鳴館」が誕生する以前の迎賓館である。

この「延遼館夜会」記録。公文書というのは、お役所のつくったしかつめらしい内容のものが多いが、これはだんぜん楽しい。「本月(一月)十八日延遼館ニ於テ晩餐差上度候」といった招待状に始まり、さまざまなことが明治の律儀さでリアルに記してある。

延遼館
幕末、外国人接待所として建てられた。 鹿鳴館が建つ前はここが迎賓館だった。

石黒敬章蔵

生ガキに始まり、フォワグラまで登場する豪華な晩餐

夜会のホスト・ホステス役は東京府事夫妻。招待客は有栖川宮(ありすがわのみや)や東伏見宮などの皇族、三条実美(さねとみ)、岩倉具視(ともみ)などの大臣、勝海舟に福沢諭吉もいれば、諸外国の公使にはフランスのギーヨーム・ド・ロケットの名も見える。欧米の習慣にならって、夫人も招かれており、ドレスコードは男性は燕尾服、女性は白襟紋付き。欧米の女性は、白襟紋付きに準ずるイブニングドレスということか。

明治のそうそうたる顔ぶれが招かれるとあっては、裏方もたいへんである。当日は夜半から雪になる冷え込んだ日で、昼過ぎから暖炉に石炭をくべて部屋を暖めるわ、照明用のランプに石油を注いで回るわ、楽隊の用意に冬枯れの庭のあちこちに提灯を張りめぐらして光彩またたく園に変えるなど、もうてんてこ舞いである。

しかし、邸内のセッティング以上に心を砕いたのは、食事だろう。6時からの晩餐、9時からは立食パーティーと、席は2回。晩餐の席につくのは52名、立食は250名。これだけの人々を、フランス料理でもてなしている。それも洋食といった生半可なものではない。左に晩餐のメニューを示したが、生ガキに始まり、二種類のスープ、ノルマンディ風のタイ、フォワグラとマッシュルームの冷製、羊のコトレット、パリ風牛ヒレ肉、そしていったんメロンのパンチで口直しをして、アスパラガスなどの野菜料理、締めくくりはマロンプリンなどのデセールとなる。立食のメニューは、フォワグラやマッシュルームを詰めた七面鳥、牛タンの蒸し焼きにフォワグラのパテ、ローストビーフ、ゼリー寄せのサラダ、コーヒー風味のソルベやプティガトーと、これまた豪華。

料理に合わせて酒もシャンパンや赤、白のワイン、ブランデーなど各種用意され、赤ワインの銘柄にはメドックの文字も見える。「面前ノ前デ調合セシメ」る混和酒の準備もあり、食前にはカクテルも楽しんだのだろう。

それにしても、と思う。晩餐のメニューを読みながら思い出したのは、数年前に招かれたホテルでの結婚披露宴だ。延遼館の晩餐ほど盛りだくさんではなかったにせよ、どこか似た料理だった。立食のメニューにしても、今、どこぞの宴会にもぐりこめばお目にかかれそうだ。ざっと130年前、江戸から明治に変わってわずか10数年、フランス料理は急速な進歩をとげていたことになる。

膳部美味なり。文明開化のランドマーク、築地ホテル館

これだけの料理をなし得たのは……。その前に、文明開化には横浜に遅れをとった東京。延遼館の宴にいたるまでの東京のフランス料理の足跡をたどってみよう。

私は今、延遼館のあった浜離宮の隣、築地市場にいる。広大な敷地のなか、勝鬨門近くのお魚資料館の前あたりに。明治元年、ここには開化のランドマークである壮大な建造物が建っていた。「築地ホテル館」。―― 開国となり、外人客を迎え入れるための日本人の手になる初の洋式ホテルである。莫大な費用は幕府が用立て、それを明治新政府が引き継ぐという国家的プロジェクトで誕生したのだった。

利用するのは外国人である。運営をまかされたのは、建設にあたった二代目清水喜助(清水建設の祖)であったが、実務は外国人の手が必要だった。料理の面でも。残されたこのホテルの晩餐のメニューがフランス語ということからも、それがうかがわれよう。「膳部美味なり」とうたわれた料理は重宝されたらしく、新政府のお偉方の外人接待用に仕出しも行われた。この時期、イギリスからやってきた外交官アーネスト・サトウも、政府要人のお宅で、このホテルから取り寄せた洋式の晩餐を御馳走になっている。彼が日本を離れる明治2年、シャンパンのあるお別れ晩餐会に使われたのもこのホテル館。本格的な洋式の料理を味わうならここ、という存在でもあったのだ。

しかし、東京と名を変えたばかりの町で、洋式の料理を調える苦労は、並大抵のものではなかったと思う。牛肉は、氷製造にも大きく貢献した中川嘉兵衛がいち早く都内に屠牛場を設け、高輪で販売しているが、それもスタートしたばかり。文明開花の新商売と聞きつけて、築地にも屠牛場ができるが、当時の新聞は「不良の肉を発売し、その弊害はなはだしく」と書いている。どこまでホテル側の要求を満たせたかは疑問である。

野菜については、入手の困難さにほとほと苦労した津田仙(つだせん)がいる。福沢諭吉とともにアメリカ視察を経験、欧米の知識を持つ人間としてこのホテルに勤めたが、そのかたわら三田農園を開く。そしてアスパラガスやキャベツ、ブロッコリーなど日本初の洋野菜の栽培に成功。普及に大きく貢献する。

こうして東京のフランス料理は、この築地ホテル館でその第一歩を踏み出す。しかしそれも束の間、明治5年、銀座から築地一帯に広がった大火により焼失してしまう。

築地ホテル館
海岸沿いに建つゴージャスなホテルの錦絵。 これでもか! というくらい洋風をアピール。

清水建設株式会社蔵

フランス仕込みの料理人を海外から招聘。ひとり勝ちの精養軒

築地ホテル館は再建されなかった。しかし、そのあとを継ぐように、翌6年、妥女(うねめ)町に新政府のバックアップを得て、「築地精養軒」がオープンする。築地市場から、行幸(みゆき)通りをものの10分も歩けば下に高速道路が走る妥女橋があるが、そのあたりに。

当時の地図を見ると、おもしろいことに気づく。築地ホテル館の近くには、横浜からの船が入港する波止場があった。築地精養軒には、5年にできた新橋―横浜間の鉄道駅新橋停車場(ステンション)。外国からの物資、情報伝達の手段が鉄道に変わったことで、「築地ホテル館」の役目は終わっていたのだ。

築地精養軒もまた洋式の料理に力を入れる。腕のいいフランス料理人、カール・ヤコブ・ヘスをスイスからわざわざ招聘している。日本での呼び名はチャリヘス。32歳で来日し、築地精養軒の初代グランシェフとなり、厨房に立って料理の腕をふるうだけでなく、後継者の養成も熱心に行った。

当時の精養軒を語るエピソードに、時の海軍大臣西郷従道は士官たちに「精養軒で洋食をとるように」とおふれを出した。月末に精養軒への払いが少ない者は、注意を受けたという。精養軒で食事をすることで、外国人との交際に必要なマナーや教養を身につけさせるというのが意図だったらしい。政府の後押しで誕生したという要因もあるが、早々に、洋食は精養軒、という位置を獲得したともいえる。その発展ぶりは、明治9年に上野公園に支店を持ったことでわかるだろう。江戸時代から味、値段ともにピカイチと名を馳せていた名料亭「八百善」と並ぶ出店という快挙だった。

あの明治14年の東京府知事の夜会。食卓を受け持ったのは、この精養軒だった。牛肉の質の悪さに嘆き、洋野菜の入手に悪戦苦闘したことも、明治の慌ただしい動きのなかでは、すでに過去形。海外との交易も整っており、食材のインフラもそれなりに対応できるようになっていたのである。

延遼館を頂点に、築地精養軒から築地ホテル館へと、三つの地点は、のんびり歩いても小一時間。この小さなトライアングルから東京のフランス料理の発進が始まったのである。江戸の繁華街、日本橋でも深川でもない。当時からすれば、海沿いの辺鄙な土地。しかし、それだけに江戸というしがらみのない土地だった。

やがて延遼館の役目は、明治16年にできた鹿鳴館へと移る。そしてフランス料理の舞台も、町なかへと広がっていくのだった。

築地精養軒
創業は明治3年とも4年とも。移転や火事にあい、6年、妥女町で再開した当初の様子。 その後、建て替えられる。

『東京盛閣図録』中央区立京橋図書館蔵

福地享子=文
(ふくちきょうこ)雑誌や単行本の編集、執筆業をこなしつつ築地の魚河岸で働く。その経験と知識から「築地に関してはこの人に」といわれるひとり。

本記事は雑誌料理王国第237号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は第237号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。


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