文明が発祥したころより、市場は世界中に立ち、人類はそこに集い、売買を行ってきた。モノと人で溢れかえり、活気みなぎる市場の様子は、いつの時代も魅惑に満ちていたに違いない。そこで、世界の市場の歴史と文化をめぐるトピックを
いくつか集めた。時空を超えた市場のざわめきに、しばし思いを馳せてみよう。
古代ギリシャや古代ローマの時代、人口が集中し始めた〝都市〞という一大消費地を賄うための物資が、周囲の農村や地中海沿岸地域から続々と流入し、それらを商う市場が頻繁に開かれるようになった。市場はたいてい都市で一番重要な場所、すなわちギリシャではアゴラ、ローマではフォルムと呼ばれる公共の広場および周囲のバジリカ(公会堂)で開かれた。これらは政治集会や裁判が行われるスペースでもあり、当時の市場は政治と結びついて発展したともいえる。
とりわけ有名なのは、今もローマに遺構が残る、壮麗な6階建てレンガ建築のトラヤヌス市場だ。1階には野菜や果物を売る店が連なり、吹き抜けの列柱廊とアーケードに縁取られた2階は、ワインやオリーブオイルを貯蔵する広大なドームになっていた。3階と4階ではコショウなどオリエントの香辛料が売られ、5階と最上階には魚市場の水槽があって、そこへは水道橋によって、絶えず真水と海水が供給されていたという。
150もの店舗がひしめいていたトラヤヌス市場は、世界最古のショッピングセンターといえるかもしれない。
西ローマ帝国の没落後に中世世界の覇権を握ったのは、イスラム帝国である。商業と交易が盛んであったイスラムは、また早くから市場が各地で発達したことでも知られる。ナイル河やチグリス・ユーフラテス両河流域、あるいは灌漑可能な地域の人々は農業を行った。灌漑すらできない過酷な砂漠地帯の人々は遊牧・牧畜を行った。このように分業を余儀なくされたことで、それぞれが生産できないものへの渇望感から、交換の場である市場が定期的に開かれるようになったという。そして時が経つにつれ定期市は常設化し、都市が形成され、バザールが出現した。
アラビア語ではスークと呼ばれるバザールは、往々にしてモスクの近くに立ち、ドーム屋根に覆われた迷宮のような商店密集街になっていることも多い。金銀細工や絨毯、絹織物といった奢侈品から香辛料、お茶、穀物、日常食料品まで、ありとあらゆるものが売られている。その活気に満ち満ちたさまは、まさに『千夜一夜物語』さながら。イスラム商業の隆盛ぶりを感じさせたに違いない。
繁栄を謳歌していたイスラムに比べ、同時代の西ヨーロッパは封建的、後進的な辺境であった。イスラム商人が世界各地からもたらす特産品が並んでいたバザールと違って、商業も交通も沈滞していた中世初期の西ヨーロッパの市場は、周辺の農民や巡礼者相手に食材や雑貨を商う、つつましやかなものだった。
こういった地域市場を自己の領地内で主催したのは、城や修道院だ。世俗・聖界の封建領主は、市場に多大な関心を寄せた。関税や屋台使用料を含む市場税を、いとも簡単に徴収できたからである。その見返りとして、市場の支配者たちは、争いごとを調停する市場裁判を開いたり、遠隔地商人を護衛したりして、市場の平和を保障した。
無数の地域市場の中でも大規模なものが、やがて年市として突出した存在感を示すようになる。一年に一度、異国の商人たちがめずらしい商品をあれこれ持ち込むようになり、ひとつの地域の暮らしを賄う役割だったのが、遠方の生産物を消費したり、他地域への積み換え市場ともなっていったのだ。たとえばパリ近くのサン・ドニ修道院の年市には、イギリス人やロンバルド人もはるばる訪れ、ワイン、蜂蜜、塩、織物などが取引されたという。
市場の光景が絵画芸術の主題として描かれるようになった歴史は、数千年前に遡る。絵描きがいつの時代にも、市場活動の持つ風俗性に関心を寄せてきたその理由は、おそらくさまざまな商品をびっしりと載せた屋台や露店に群がる売り手と買い手の雑踏の中に〝絵画的なるもの〞の真髄を見たからだろう。
市場画は、16〜17世紀のオランダで最盛期を迎えた。それはちょうどオランダが経済的にも繁栄の頂点を極めた時代であり、また敬虔な宗教画が主流であった中世を経て、世俗的なものに目を向け、人々の日常生活を風俗画法で再現しようとした時代でもあった。
多くの画家が寓意的なテーマを巧みに織り込んで、大がかりな市場光景を描いた。上の『アーヘンの市場広場』しかり、左の『謝肉祭と四旬節の喧嘩』しかり。市場広場でたくさんの人々が繰り広げた賑やかな営みが、実にいきいきと活写されている。これらの絵画を眺めるだけで、市場が当時の庶民にとって、商品を売り買いするだけでなく、いかに社交の場であったかがよくわかるのである。
小売市場だけでなく卸売市場にも目を転じてみよう。ヨーロッパでもっとも有名なのは、かつてパリ中心部レ・アールにあったパリ中央卸売市場だ。1136年、ルイ6世によって創設された、長い伝統を誇る市場である。
19世紀の小説家エミール・ゾラは、この市場を舞台にした作品『パリの胃袋』の中で、溢れかえる食材をビビッドに描写している。「われわれは夜のしじまに閉ざされた野菜の景観の中をさまよう。ブルーのネオンの下では、キノコがなんと不気味に見えることか。鉄製の丸天井の暗がりで、果物のピラミッドから漂う芳香に酔いしれる。薄明の中をさまざまな魚、甲殻類、貝が並ぶ間を歩き回る。まるで海底を歩いているかのようだ。天井からぶら下がった豚の死体の森では、もう少しで道に迷うところだった。やっと道が見つかったと思ったら、いつしか夜が明けていた」。
まさに全国から食材が集中する中央卸売市場ならではの豊穣さがよく伝わってくる文章ではないだろうか。
ヨーロッパ以外のエリア、たとえばコロンブス(1492年)以前のラテンアメリカでは、市場はどう営まれていたのだろうか。
アステカ人(14〜16世紀)は、発達した市場制度を持っていた。中央市場のネットワークが国中に張り巡らされ、これと連動した大小の定期市も存在。市場監察官がいて、市場活動を監視し、税の徴収に当たっていた。
マヤ人(4〜12世紀が最盛期)の場合は、5日ごとの週市が支配的であった。商業はマヤ人にとって大きな意味を持っていた。「彼らは織物、塩、奴隷をカカオや真珠といった、貨幣として使っていたものと交換した」と、ユカタンに赴任した司教は書いている。
インカ帝国(13〜16世紀)で最大かつもっとも豊かなのはクスコの市場だ。ここでは大量の金が売買され、あらゆる物品が運び込まれていたという。また小規模な市場なら、どの都市や村にも存在した。トウモロコシ、ジャガイモ、海魚、淡水魚、食肉、コカノキ(葉からコカインを採る)、木綿、羊毛、金、銀、宝石といったものが売買されていた。
ラテンアメリカの市場には、今なお往時の雰囲気が色濃く残っている。
西アフリカ内陸地方は、古来よりイスラム世界や西欧世界に〝黄金の国〞として知られていた。10世紀前後から相次いでこの地方に興亡したガーナ、マリ、ソンガイなどの大帝国のイメージは、サハラ越えのキャラバンや交易都市トンブクトゥとともに、私たちの想像力を刺激してやまない。
マリ共和国の古都ジェンネは、古くから北の砂漠と南の森林を結ぶ交易の結節点として栄えた。この町では、現在でも大モスクの前の広場で定期市が立つ。市場は近隣の村々からやってきた人々で溢れ、食品、香辛料、布地や雑貨を扱う小屋掛けの商店が林立する。
19世紀のフランス人探検家の旅行記によると、ジェンネの市場に並べられていたのは、たとえば精肉、串焼き肉、鮮魚、干し魚、塩、コーラの実、蜂蜜、ヒエ、米、タマリンド、ピスタチオ、バオバブの実と葉……。
多様なのは商品だけではない。マリの社会言語学者の調査によると、1989年のある日、ジェンネの定期市にやってきた人々は8つの民族集団に属し、交わされていた会話はバルバラ語、フルベ語、ソンガイ語、ボゾ語など7つの言語にわたっていたという。
このような多様性と、市場におけるその邂逅こそが、西アフリカ社会の活力源ではないだろうか。
この記事もよく読まれています!
松田亜希子・文/構成
●『市場の書ーマーケットの経済・文化史ー』
ゲルト・ハルダッハ、ユルゲン・シリング著 石井和彦訳(同文館)
●『地域の世界史9 市場の地域史』
佐藤次高、岸本美緒編(山川出版社)
本記事は雑誌料理王国2011年2月号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は2011年2月号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。