トップシェフが語る【牛肉の履歴書】 吉野建さん


牛肉の向こうに広がる、多様で奥深い肉の世界

吉野建さん

 日本人にとって牛肉は、日常の食卓に華を添える食材、また“ハレ”の日の晩餐を飾る主役としても特別な地位を獲得している。だが、フレンチの世界では、牛肉をあまり積極的に使わないという。通算26年、本場フランスでフレンチを研鑽し、世界の美食家を唸らせてきた吉野建さんも、自身、牛肉をあまり使わない主義と明かす。

「フレンチでも昔から牛肉料理はありました。でも、ガストロノミー的な高級料理店では牛肉を使いませんし、私もフランスではほとんど牛肉料理を出しませんでした。フランスでおいしい牛肉を食べようと思ったら、町の大衆食堂でステーキ、が一番といってもいいかもしれない。ただ焼くだけでは、フランス料理とはいえないからです。ウサギ肉や羊肉、鴨肉、部位でいえばリー・ド・ヴォー(胸腺)、ロニョン・ド・ヴォー(腎臓)を料理として仕立てるのが、高級フレンチ。ですが、日本ではウサギや鴨が苦手というお客様がいらっしゃるので、コース料理に牛肉があるとそちらが選ばれる。その意味では、牛肉の存在価値は大きいと思います。うちの店でも、牛肉はフィレ肉やランプ肉、ほほ肉などをメニューに置いています」

 そういう風土からか、牛肉に対するとらえ方は、日本とフランスではまったく異なるという。

「日本では、霜降り肉など、サシの入った牛肉がもてはやされますが、世界的には珍しい肉。こうした肉をソース重視のフランス料理で使うとなると、サシの脂がソースと喧嘩してしまう。そういった牛肉を使うなら、多少熟成が必要でしょうし、できれば赤身がいい。シャロレー牛のフィレ肉であれば、自分の料理技術で、サシの代わりになるような旨味を出すことができます」

牛ほほ肉の赤ワイン煮
ランチコースを飾る、吉野さんのスペシャリテ。メインのほほ肉に、ポテトのエスプーマ、ブロッコリーのピューレ、ジロールタケ、ゴボウのフリット、ロマネスコ、ラディッシュ、ニンジン、アリコ・ヴェール(極細インゲン)、ペルシプラ(イタリアンパセリ)などの野菜を添えた、美しいひと皿。しっかり煮込まれてやわらかいほほ肉は、決して重くなく、軽やかかつ華やかな味わいで、思わず笑みのこぼれるおいしさ。

イマジネーションで料理に新たな息吹を与える

 吉野さんのイマジネーションは、本場フランスの料理人も驚くような数々の逸品を生み出してきた。牛肉に重きを置かないとはいうものの、これまで大切にしてきた牛肉料理があるという。

「それは“牛フィレ肉のロッシーニ風”です。『ウイリアム・テル序曲』で有名な音楽家ジョアキーノ・ロッシーニの名が由来の料理ですが、美食家として知られる彼にふさわしいフォアグラやトリュフを組み合わせた贅沢な一品です。もうひとつは、スモークした牛タンを使う“ルクルス”。これは牛タンの燻製とフォアグラ、トリュフを使ってミルフィーユ仕立てにした豪華な料理です。あと、“ヒレ肉のソース・ペリグー”は、お客様から食べたいというオーダーがあれば作りますね」

 実は吉野さんが素材として珍重しているのが、仔牛だという。

「仔牛は上品でクセがなくておいしい。うちの店では、フランス産の乳飲み仔牛しか使いませんが、肉が苦手という人でも、仔牛なら大丈夫という人も多い。きちんと火入れをすれば、400グラムくらいはペロッと食べられるんじゃないですか(笑)。クリーミーな部分もあれば、肉の歯ごたえもあるし、脂も入っていない。ローズマリーやタイムで香りづけし、最後に香りのいいバターで焼き上げれば最高の一品になります」

 吉野さんが自身のイマジネーションを駆使して料理に新たな息吹を与えた一例が、仔牛の頭肉の煮込み“テット・ド・ヴォー海がめ風”。フランスで忘れ去られていた幻の古典料理を、シェフ独自の想像力と高度な技で現代に甦らせた感動的な料理。名だたる美食家たちから“パリの王様”と呼ばれ、絶賛された。「『三銃士』で有名な作家のアレクサンドル・デュマの古典を読んでいた時に出てきた料理です。見たことも聞いたこともないし、もちろんルセットがあるわけではない。でも、これはおもしろい料理になるんじゃないかと思いつき、自分のイメージで作りました。納得いくまでに3~4度、やり直しました。技を効かせた料理ですが、フランス人が作れなかった料理を、なぜ日本人が作れるのかと、反響が凄かった。私にとっては、自信作のひとつです。仔牛の頭肉というのは、頬の部分がちょうどいいゼラチン質で、珍しい味だし、とてもおいしいんです」

多種多様な肉に親しんでもっと堪能してほしい

 吉野さんは、日本人は牛肉だけでなく、もっといろいろな肉に親しんでほしいという。

「牛肉は、私たち日本人にとって切っても切れない食材です。私だって、無性に牛肉が食べたくなる時はあります。いろいろ飛び回って動いているので、エネルギーが必要な時には、やっぱり牛肉でしょう。それと、かたい肉に慣れた海外からの旅行客にとっては、サシの入った和牛の肉のやわらかさは驚きでしょうし、支持されると思います。そうした意味では、ビジネスとしても牛肉をちゃんと育てていく必要があると思います。昔に比べれば、牛肉のバリエーションは増えましたし、都道府県ごとにブランド牛を作ろうという動きも広がっています。ただ、私自身としては、小さい頃から家でヤギや豚を絞めて食べる環境の中で育ったので、牛肉よりもヤギのほうが、食べた時に圧倒的な幸福感や満足感があります。私の実家では、ヤギは3~4カ月に一度、豚は年に一度、12月28日に食べると決まっていました。フランスの田舎に行くと、似たような“フェット・ドゥ・コション”という年の瀬のお祭りで、豚を絞めてみんなで食べる習慣があります。だからか、フランスで修業していた時、懐かしいというか、自分に合う国だなと感じていました。ヤギ汁やヤギ刺しは食べていたけど、牛肉を食べたことは高校卒業まで3度ほどしかなかった。ですから私のおすすめは、ほかの肉より断然親しみのあるヤギであり、羊や馬、鳩、食用のウサギ、ジビエなのです」

 サシの入った霜降り肉一辺倒から、最近では赤身肉に注目が集まるなど、日本でも少しずつ変化が表れている。「それが自然です。もっと赤身肉を食べたほうがいいし、そこからさらに違う肉にも親しんでほしい。日本も昔は、いろいろな肉を食べていましたが、それが時代とともに変わってしまった。一方フランスは、昔も今も変わらず、伝統として多彩な肉を料理に取り込んで愉しんでいる。だから日本人ももう一度、そういう多様な肉があることを再発見して、もっと食べるようになってほしいですね。東京は食事情に関しては世界でもトップクラス。多くの店がしのぎを削り、切磋琢磨しながら、おいしい料理を出そうとしている。ありとあらゆる肉がおいしく食べられるんですから」

 牛肉という圧倒的な存在の向こうに広がる、多種多様な肉の世界。日本人は今、ようやくそのとば口に立ち、新たな肉を発見しようとしているのかもしれない。

Tateru Yoshino
1952年、鹿児島県生まれ。1979年に渡仏し、「トロアグロ」「ジャマン」など、数々の名店で修業を積む。一度は帰国したが、フランスで店を開くため再度渡仏。1997年、パリに「ステラ マリス」を開店し、2006年にはミシュランで一ツ星を獲得した。2003年からは、日本で複数の店舗を展開している。

高梨哲=取材、文 岩本栄作=撮影

本記事は雑誌料理王国268号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は268号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。


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