【中国四大料理・四川】「遅れてきた大物」刺激的かつ繊細な味を日本に伝える


関連記事

「遅れてきた大物」刺激的かつ繊細な味を日本に伝える

「麻」「辣」など、その特徴的な味付けで、日本人に新鮮な印象を与え続ける四川料理。日本においては北京、上海、広東各料理とは異なり、ひとつの大きな系譜を描くことができるのが特徴である。その源である「四川飯店」の原点と、これからを追った。

代表的技法代表的料理
魚香ユイシャン 魚香肉絲ユイシャンロウス ]豚肉の千切り辛味炒め
麻辣マアラア 水煮牛肉ショエイヂュウニウロウ ]牛肉のトウガラシ汁煮
家常ヂャチャン 回鍋肉ホェイグオロウ ]ホイコーロー
怪味ゴワイウェイ 怪味鶏ゴワイウェイジィ ] ゆで鶏の怪味ソースがけ

日本に四川料理を広めた功労者、陳建民

「食は広州に在り」という言葉は知られているが、この言葉の先には「味は四川に在り」と続く。実り豊かな「天府の国」に育まれた四川料理は、内陸の土地ゆえ、北京料理や上海、広東などに遅れて日本にたどりついた。いつどこで、誰が最初に日本に伝えたかを正確には知るすべがない。しかし麻婆豆腐、回鍋肉といった料理が全国的に認知され、今ほど浸透したのは、まぎれもなく「四川飯店」の師父スーフー 、陳建民氏の力によるところが大きい。

鍋を片手に渡り歩いたさすらいの料理人、陳氏が友人の黄昌泉ホアンツアンチイン 氏とともに香港から日本にやって来たのは昭和27年のこと。知人を頼りに最初は外務省周辺の宴会料理や出張料理で腕を振るった。その後、青山にあったゲストハウス「東文基園トウブンキエン 」で生涯の伴侶となる「ママ」こと洋子夫人と出会い、昭和28年に結婚する。

昭和30年に神宮前「福禄寿」に入店。この店で、将来長年仕事をともにする張謁海ヅアンアイハイ 氏や原田治氏と出会う。翌年1月には長男の建一氏が誕生した。

目黒の「香港園」を経た陳氏は、昭和33年、田村町(現在の西新橋)に「四川飯店」を開店させる。現在「シェンロントーキョー」取締役総料理長を務める杜栄トエイ 氏は、当時18歳で見習いを務めた。店舗は木造2階建ての建物。厨房では、いわゆる「鍋」の陳氏と「板」の黄氏がコンビを組み、彼らの下には「鍋」の2番手に陳氏の一番弟子の李忠本リーチョンベン 氏が、「板」の2番手には原田氏がいた。このほか、点心師や手伝いの女性などを含めて10人ぐらいのスタッフが働いていたという。

店は大盛況で昼時は行列ができ、連日ランチだけで100人近い客が訪れた。まさに世は高度成長期。食欲そそる刺激的な香りの四川料理は、スタミナを求める新橋のサラリーマンにおおいに受けた。また、ちょうどこの頃、陳氏はNHKの「きょうの料理」に出演。そのユニークな語り口で一躍人気がブレイクする。四川料理が全国に知られる大きなきっかけとなった。陳氏は当時「私の料理、ちょっとインチキね」と話していた。昭和30年代当時、日本に輸入される中国食材は乏しく、四川の特徴の「麻」の花椒ホワジャオ も、「辣」の豆板醤もない。なければ自分で作るか何かで代用するしかない。しかも本場そのままの辛さで麻婆豆腐を提供したとしても、当時の日本人には刺激が強すぎた。そこで「陳流四川料理」の味付けが生まれたのだ。

弟子で息子の建一氏が「料理を見れば、その料理人さんがいつの時代に父の弟子だったかがわかりますよ」と話すように、エビのチリソースは途中から卵が入り、担担麺は芝麻醤の量が次第に少なくなっていくなど、時代とともにスタイルや味も変化していった。

昭和35年には六本木店が開業。田村町店は黄氏にまかせ、陳氏はしばらく六本木店で鍋を振るうようになった。香港や台湾からも料理人を招き、厨房はますます活気を帯びていった。

鶏肉とカシューナッツの朝天唐辛子炒め
四川伝統料理の代表格。トウガラシを香り高く焦がし、甘味、酸味とバランスをとる。 従来は鷹の爪を使用していたが、四川から本場の調味料が入るようになった15年ほど前から、朝天唐辛子を使用している。

変わらぬ「教える」姿勢と、変わる「料理」

昭和41年、陳氏が学院長を務める恵比寿中国料理学校が開校する。コースは本科、専門研究家、師範科、職業科、高等科に分かれ、生徒の大半は主婦だったが、夏期講習ではホテルの料理長が講師となり、プロの料理人も受講した。

弟子が厨房の鍋をなめるのも許されなかった時代に、すべてのレシピを公開することは画期的なこと。建一氏をはじめ、先述の杜栄氏や「文琳」の河田吉功氏など四川飯店グループの料理人たちが主に講師や助手を務めた。

そして昭和45年には「赤坂四川飯店」が誕生する。昭和38年に入店したシェラトン都ホテル東京の「四川」料理長の橋本暁一氏は、「陳さんからは、つねに『料理は愛情だ』と教えられました」と当時を振り返る。

「四川飯店」はその後、昭和46年に池袋店の出店を皮切りに、「近鉄大飯店」や「そごう」からの出店要請が続き、弟子の多くは各地の四川飯店系列の店に旅立っていった。看板貸しもいとわない、陳氏の人柄が出店に拍車をかけた。

現在「赤坂四川飯店」料理長を務める鈴木広明氏は、先代の時代から現在の建一氏の時代までの変遷を、目の当たりにしたひとりだ。一番の変化は、本場四川から調味料を調達できるようになったこと。料理の幅は飛躍的に広がった。いい事例が麻婆豆腐だ。陳建民流だけでなく、本場流が次第に浸透していった。

「とはいえ、今も先代の味を求めて来られる常連客がいらっしゃいます。『陳建民流の四川料理』から現代の『新派四川料理』まで、幅広くカバーしなくてはなりません」と鈴木氏は語る。

建一氏によると、先代の頃の厨房はいわゆる職人気質な料理人の集団で、建一氏はいいところも悪いところもみな見てきたという。その中で、自分が後を継いだ時のヴィジョンをつねに頭に描いてきた。まずサービスを鍛えた。「四川」を中国語読みの「スーツァン」とし、小皿形式の店を作った。「エル・ブリ」のフェラン・アドリアを厨房に迎えて研修を行うなど、料理ジャンルを超えた技術交流を行うことにも積極的である。

エビのチリソース エシレバター包み
陳建民氏の名を世に広く知らしめた、「エビのチリソース」の進化形。 殻をむいて広げた伊勢エビでエシレバターを包み、片栗粉をつけて揚げ、 豆板醤、ケチャップ、全卵などを加えて炒める。

四川料理とは
複雑な調味料づかいから生まれる豊潤な味わい

四川省は東西に流れる長江の西北部に位置する。水に恵まれ、周囲を山脈に囲まれた肥沃な盆地であり、米の一大産地で農作物がよく育つことから「天府の国(神から与えられた土地)と呼ばれてきた。なかでも四川盆地は、夏は猛暑で冬は寒さが厳しく、また一年中曇りの日が多く湿度も高い。そのことから、発汗作用を促し食欲を高め、体を温める効果のあるトウガラシや花椒を使った料理が土地に根付くようになった。

四川料理は「川菜チョワンツァイ 」と呼ばれ、川菜正宗(正統派四川料理)とされる成都菜と、重慶菜の二派に分かれる。川菜の基本はマア (花椒の味)、ラア (辛味)、ティエン (甘味)、シエン (塩味)、ソワン (酸味)の五味とされるが、クウ (苦味)とシャン (香り)も加わり、七味とする説もある。単に「辣」が際立つだけでなく、複雑な風味が絡み合うことで豊かな味わいを形成するのが、四川料理の特徴。また大衆的な一品料理「小吃シャオチィ 」が多種多様に発達しており、麻婆豆腐や棒棒鶏、担担麺などがこれを代表する。

四川料理の関連記事はこちらから!

text by Kanami Okimura/photographs by Manabu Sugita,Yukari Nagase,Takashi Watanabe

本記事は雑誌料理王国159号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は159号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。


SNSでフォローする